「イエロー・ホリディ」(赤安/R18)
【Yellow holiday】
一目惚れ、というのはなにも人間相手だけではない。犬や猫といった動物相手に持つ感情でもあるし、宝石に絵画や壺、あるいは波に繰り返しさらわれたガラスのきらきらした欠片に抱く感情かもしれない。世界にあふれる色とひかり、そして音のすべてが見事に組み合わさった瞬間、奇跡が生まれるのだとその日降谷零は生まれて初めて思い至った。
それは一枚のシャツだった。
丁寧に、愛されて、時間をかけて着古された一枚のシャツだった。
元はもっとはっきりしたピンクとブルーのチェック模様だったのだろう。数え切れない洗濯をされてフランネルの生地はくたくたになり、いい感じなのを通り越して少しくたびれていた。だからこそ、目を惹いたのかもしれない。
降谷がいたのは五月の米花町のとある公園だった。今日は日曜日なのと見事な晴天とあって朝から上機嫌に起き出し、溜まった洗濯物を片付けながら部屋を隅々まで掃除し、焼き鮭に味噌汁、卵焼きに高菜の漬物、仕上げに最近気に入っている脂質ゼロの美味しいヨーグルトを食べて腹も満たされたところで散歩に出た。
朝は一番よく食べる。組織が壊滅したいまも仕事は辞めていないが、やることは格段に減った。まず、現場から身を引き、内勤になった。そもそも長年潜入していた身だ。これ以上の表だった仕事はさすがに公安の立場としても差し障るし、降谷の精神的な安定についても考慮してくれたのだろう。とはいえ、ワーカホリックである降谷にとって定時に職場に行き定時で帰るなんてずいぶんとご無沙汰だったから、慣れるまでにかなり時間が要った。
もう、命が危険に脅かされるような現場に赴かなくていいのだ。この先はよほどのミスをしないかぎり庁内で安定した出世を遂げ、立場はより確実にしっかりしていくものだろう。それこそ文句のつけようがないぐらいに。
しかしどうなのだろう。思い描いていた安定が手に入った途端、降谷はそのことに幾分か物足りなさとつまらなさを覚えた。
喉まで焼き尽くすような爆風。身体を覆う熱風。風に乗った火の粉がジャケットの裾を燃やし、火だるまになる直前まで現場に突っ込んでいったあの日々。鼓膜を破るような爆音ともうもうと立ちこめる煙に堪えていたのがいまとはなっては懐かしいと感じるなんて、自分の感性はどうかしているんだろうか。
人間は平穏を欲し、好む。一般的には。
だがバーボンとして潜入したのを皮切りに、降谷から安寧の二文字は綺麗にかき消えた。身を炙るような焦燥感に背筋がたわみ、いつだって祖国のためなら添い遂げられると本気で思っていた――のだが、どうやら人生はもう少しバランスよくできているみたいで、任務途中で自死に追い込まれることもなければ、殉職することもなかった。
ただ、慣れてもない自由が与えられたのだ。
普通だったらそれを喜ばないはずがないのに、いまの降谷にとっては空き時間をうまく使うということがまだできない。だから日曜の今日も散歩と称して公園にやってきたところ、大型広場で大勢のひとびとがシートやテントを広げ、なにやら楽しげにしている場面にぶつかった。よく見てみると、誰もがなにかしらの物品を目の前に広げ、行き過ぎるひとびとは好奇心旺盛にそれらを眺め、手に取り、交渉らしきものが成立すると金を渡している。
「フリーマーケットか……」
自宅で不要になった食器や衣類、家具に本、懐かしいCDやレコードなんかをおのおの出品し、値段をつけ、やってきた客と喋りながら売買する昔ながらのイベントだ。最近はどんなものでもリサイクルの意識が高まっているし、もともとジーンズや革のブーツ、レコードに本、調度品のたぐいがビンテージとして売られることはもちろん知識としては入っている。
ただ、自分ではやったことがなかったし、買ったこともなかった。
バーボンとしてあちこちに潜入していた頃、極秘のオークションを捜査することは何度かあったが、あそこで行われていたのはほんとうの非合法だし、売られていたものはだいたいが人間だ。生きている人間、生きている臓器。一晩の値段から始まって、一生分の人間の値段が付けられる闇オークションの記憶を引っ張り出そうとするとそれにまつわる暗黒の諸々まで出てきそうだったから、無理やり押し込める。
今日の日本では晴れた日曜の朝からひとびとがのんきに自分ちから引っ張り出してきた古物をシートいっぱいに広げ、「見てってよ」「どうぞ見ていってください」と明るく声をかけている。中にはラックを使って服をたくさん掛け、大きな姿見を用意している者もいた。
子どもたちがあちこちを走り回り、近くにはフードワゴンもいくつか出ている。
絵に描いたような典型的な休日だなと思うと少し気分がゆるんで、そちらの方向へ足を向けてみることにした。
誰かが使い古した商品というものにはあまり興味がないが、見る目だけは鍛えてある。ここがヨーロッパの蚤の市ならばガラクタに混じって誰もが知る著名画家のスケッチやあるいは作家の初版本が見つかるという都市伝説も夢見られそうだが、あたりをぐるりと見回した感じでは、どこも家庭内にある物品ばかりだ。
頂き物の食器類があれば、ちいさくなってしまったのだろう子ども服もたくさんある。芝生を踏み締めながらひとつひとつのブースをのぞいていくと、意外とおもしろい。並べられた商品の向こうにそれぞれの家庭像が見えてくるようだった。
リサイクル商品と言えど丁寧に畳んだりハンガーに掛けたりして見栄えよくしている者もいれば、まるでデパートのワゴンセールのようにごちゃごちゃと山盛りにし、「どれでも三百円!」と派手派手しく書いたPOPをつけている店もある。
「袋に詰め放題で千円ですよ、どうぞ見てってー」
降谷の視線の先で、子ども服を売っているブースがある。そこではほんとうにたくさんの子ども服がどっさりと山積みにされて、母親らしき女性たちが目を輝かせて立ち寄っていた。どうやら、半透明のレジ袋に詰め込むだけ詰め込んで千円らしい。そこは後ろにワゴン車を置いて段ボールから商品を出していたので、どこかの卸業者かもしれない。あるいは不良在庫を一掃セールにしたいショップとか。
自分にしてはのんびりした足取りで練り歩いていたら、次第に喉が渇いてきた。今日の気温は二十八度前後。めずらしく湿度が低い日なので過ごしやすいが、キャップをかぶってこなかったのでうっかりすると熱中症になるかもしれない。どこかで冷たい飲み物でも買って休もうかと思った矢先に、そのシャツが目に入った。
そこは男性物の衣類をメインにしているブースで、右端にシューズ、バッグ類、真ん中にトップス類、その隣にはアウター、そして一番左端にボトム類が折り畳んで置かれていた。
降谷が目を奪われたのは一番手前に広げられたピンクとブルーの褪せたフランネルのチェックシャツだった。いましがた、誰かべつの客が広げていたのだろう。そのくたくたした感触がやわらかに映り、思わず近づいて膝をついてみる。
「いらっしゃい。そのシャツ、まだまだ綺麗でコンディションいいよ」
店主は五十代とおぼしき男性で、洒落た色合いの紺のシャツとデニムを身に着けている。
「これはあなたが着ていたもの、ですか?」
「いや、うちはメンズショップでね。今日はよくうちに来てくれるお客さんたちから預かった商品を並べてるんだ。アメリカブランドがほとんどだから、頑丈だし、ゆったり着られる。お兄さんにはちょっと大きいかな?」
言われてシャツを自分にあてがってみると、なるほど、袖丈も肩幅、身幅もだぼっとしている。オーバーサイズの羽織シャツとして着る分には問題ないだろう。
「3XL?」
「XXLだね」
店主は丁寧に首元のタグを見せてくれた。そこには降谷も当然知っているアメリカの有名ブランドのロゴが書かれていて、だからこんなに洗い尽くされてもしっかりしているのかと納得できた。日本製と比べるとざっくりしたつくりのシャツだが、さすがブランドものだけあって大きな型崩れはしていない。
このブランドのシャツは着たことがないのだけれど、なにかのついでに都心の百貨店をのぞき、仕事で使うシャツや靴下類を求めている最中にここの店舗にふらっと立ち寄り、シンプルなコットンのボタンダウンシャツに触れたことがあった。胸には赤い馬のマークが刺繍され、肩口や袖の縫い目も綺麗だった。そのときも店員に熱心に勧められたが、「日常ではこんなにいいシャツを着ないので」とにこりと笑って帰った。
頭の回転の速さと見た目を武器にしていたバーボンの頃とは違う。安室透の時代も街並みに溶け込むような、ひと目見てこのひとは敵じゃないとすんなり信じられそうな服装をこころがけていた。潜入捜査時の服装はすべて部下の風見任せだったこともある。
ほんとうの――というとほんとうとはなにかという曖昧な事実に行き当たる。バーボンだって安室透だってほんとうはほんとうだ。いくつかあった顔のひとつで、そこに嘘や疑惑、秘密も確かにあったけれど、真実だって間違いなくあった。とはいえ降谷零一個人としては服装にさほど強い興味を持たず、仕事ではとあるブランドを好んでずっと着ている。私服にいたってはリラックスウェアとジャージ、それにシャツとデニムぐらいだろうか。飾り立てることが降谷にとって必要なことではないので、暑さと寒さが調節できて清潔感があればいいと思っている。
そんな考えであっても、手にしたシャツはなかなか魅力的だった。フランネルの生地は洗濯に強い。安物だと独特の毛羽立ちがごわごわしてしまうのだが、これはちょうどいい薄手の素材で指にも馴染みがいい。
指先で生地を擦り合わせ、陽のひかりにシャツを照らしてみた。
「最初はもっとくっきりしたブルーとピンクだったんだけど、着古したせいでそんなパステルカラーになったらしいよ」
「いい色合いですね」
原色が似合う顔ではない気がするので、これぐらいの色がちょうどいいかもしれない。そのブースには少し大きめの鏡も用意されていたので、慎重に身体にあてがってのぞき込んでみた。
陽射しに照らされて蜂蜜色の髪はきらきらと弾け、甘く煮詰めた蜜のような肌色にパステルピンクが自分で言うのもなんだがよく映える。瞳の青さを引き立てるような薄いブルーも気に入った。
「似合うよお兄さん。ちょっと大きめだけど最近そういうのはやりだからさ、上着代わりにいいんじゃないの?」
「ですね。これ、値札ついてないけどおいくらですか」
物は大切にする性格だが、あえて古着を手に出そうとしたのは初めてで、平均価格がわからない。この時期にちょうどいい羽織を新調しようかなと思っていたところなので、このシャツが欲しい。金額さえ折り合いがつけばの話だが。
「元が結構いい値段だからね。それ、中古で出しても人気のある柄なんだよ。一万五千円でどうかな?」
「一万五千円……」
思っていたより、高い。いや無論金には困っていない。これの十倍する値段のシャツを当たり前に毎日着捨てていた時代だってあったのだ。だがもともと降谷は締まり屋のところがあって、任務以外では無駄遣いするたちではなかった。
よく考えてみると、どこの誰が手を通したかわからない古着のシャツだ。それに一万五千円払う価値があるかないか。せめてネットのフリマでも体験しておけばよかったなと思う。最近はいろんな形のフリマアプリがある。知識のひとつとして当然知ってはいたけれど、実際に個人と取り引きしたことはなかったのだ。
どうしたものか。欲しいことは欲しいし、揺れる。一万円札が数枚財布に入っているからすぐさま渡せばいいのだろうが、あとで早まったなと思わないだろうか。
シャツ一枚にどんな思い出が込められているのか想像がつかない。前の主人はこれを着古し、もう飽きたから手放したのだろうか。それとも体型に合わなくなったとか。
あれこれ考えているというのは迷っている証拠だ。即断即決できるのが自分のよさと思っている降谷はいったんシャツを軽く折り畳んで戻し、膝を払って立ち上がる。
「少し悩んでみます」
「そう? すごく似合ってたけどね。古着は一期一会だよ」
可笑しそうに笑う店主は気を悪くすることもなく手を振ってくれたので、軽く頭を下げてその場から離れる。
ピンクとブルーの褪せたシャツ。何度も水に通したネルが気持ちよくて、きちんと羽織ってみればよかった。
近くの自動販売機でミネラルウォーターを買って飲み歩く間も、意識はあのシャツのことで占められている。
やっぱり買えばよかった。いや、どうだろう。
あれこれ考えて、他のブースものぞく。メンズものは結構出ていて、新品もわりと見かけた。綺麗さを望むならそれを買えばいいのだし、なんならいまから百貨店に行けばいい。
――でも。
あのシャツは運命じゃないだろうか。前の主人がどうあれ、降谷が手にしたのは事実で、実際よく似合っていたと思う。今度は自分の手で洗い、もっと肌馴染みをよくしてみたい。古着を欲しいなんて初めてのことだが、その気持ちは大事だ。
やっぱり買おう。同じ一万五千円を出してもいまみたいな高揚した気持ちが持てるようなシャツにそうそう巡り会えるとは思えない。
迷うということが命取りになる現場をかぎりなく踏んできたせいで、自分にとって必要なもの、生かすべきものの区別は瞬時につく。たかがシャツ一枚と言えどこうも思い悩むということは、それだけあの色褪せ具合や手触りにこころが惹かれたという証拠だろう。
きびすを返して足早に先ほどのブースに戻った。たぶん、離れていたのは十分ほどではないだろうか。
あの店主は当然まだいて、リサイクルの衣類を売っている。そして降谷の顔を見るなりぱっと顔をほころばせたので、幸先がいい――そう思ったのに。
「残念だねぇ。いましがたあのシャツ売れちゃったんだよ」
「え、ほんとうですか? ついさっきですよね」
「うん、君と入れ違いかな。大柄の男性が買っていったよ。まだそのへんにいるんじゃないかな?」
「そのひとの特徴わかりますか」
「はは、直接交渉して買い取るかい? ま、頑張ってみて。黒いシャツに黒いスラックスを着てたかな。ああ、それに黒いニット帽をかぶってた。暑くないのかなあれ」
聞いているうちに背筋がぞわぞわしてくる。
この陽光まぶしい日にそんな暑苦しい格好をしている人物はひとりしか思い浮かばない。
「ありがとうございます、捜してみます」
「あっ、うん、またな来てくれな!」
走り出す降谷の背中に店主の楽しげな声がかかる。ひとの多い公園内だが、黒尽くめの男を見つけるのはそう難しくないはずだ。とはいえ、足下ではちいさな子どもがはしゃいでいるし、ベビーカーも行き交う。男の子がかぶりついているアイスクリームにぶつかりそうになり、「ごめんね」と慌てて謝りながらも人波をかき分けていると、先のほうに黒いニット帽がわずかに見え、心臓がごとんと跳ね上がる。
広い肩幅は日本人離れしている。けれど、かすかに見えるうなじに垂れた後ろ髪は漆黒で、彼が東洋の地を引いていることがわかる。シャツの袖をまくったところが見える膚の色は白にほんの少しだけベージュを混ぜたような絶妙な色合いで、瞳は前に回らなくてもわかる。ひとのこころを見透かすようなオリーブグリーンだ。
そう確信したら息が上がるが懸命になだめ、足を速めて大股気味の彼に近づいていった。
どう声をかけようかと一瞬案じたが、決心が鈍る前に「――あの」と呼びかけていた。
「なにしてるんですか、こんなところで」
ため息交じりに呟くと、風に乗って彼にも届いたようだ。ぴたりと足を止めた男が肩越しに振り返り、「ああ」と軽く顎を引く。
「降谷君か。ここで会うとは偶然だな」
「偶然? ほんとうにそうですか? 天気のいい今日、米花町にいくつもある公園で開催されているフリーマーケットは大小合わせて結構多いと思いますがね」
「ほんとうにたまたまさ。今日はこの陽気だ。たまには外をぶらつくのもいいかと思って公園までやってきた。そうしたらマーケットがあったんで寄ってみたというわけだ。君もか、降谷君」
彼に名前を呼ばれるたびに少なからず胃の底がせり上がる感じが未だにあるのだが、昔ほどの憎悪はさすがにない。
「赤井秀一とあろう者が爽やかに公園を散歩ですか。まるで似合わないな」
「気晴らしに歩くことは昔からの癖だ」
鋭い容姿とは裏腹にのんびりした口調の男に神経がぴりぴりする。自分がまだまだだなと思うときはこんなときだ。組織壊滅から半年以上も経ち、公安、FBIともに協力体制が整い、後始末や念のための残党狩りについて日々スムーズなコミュニケーションが成り立つように注力している。もちろん降谷もそのひとりだ。
目の前に立つ赤井秀一も、たぶん。
ライとして出会った頃から無口で自分勝手な行動が多く、一匹狼という印象はFBIの超一級スナイパーだとわかってからもさほど変わらなかった。消えない憎しみを赤井に抱き、募らせ、こじらせ、一時は彼に変装して行方を探ったぐらいだ。
しかし、時間という良薬が自分にもようやく効き始め、彼に対する憎悪は日に日に薄れていった。赤井のほうはどうなのかわからないが、前よりだいぶ態度が軟化したように思う。合同チームが置かれている庁内で顔を合わせれば向こうから声をかけてくることもあるし、たまには食事や呑みに誘われることもあった。
いまさらなにを話すことがあるんだ――そう意地悪く思ったこともあったが、一度口を開けば共通点は数え切れないほどあった。ライとバーボンと名乗っていた頃から遡り、互いに片付けてきた仕事や関わった人物にまつわるエピソード。そうしていまに繋がる道筋なども。それぞれの出生に関わる出来事はあまり話さなかったけれど、赤井と降谷を繋げる糸はいくつもあったのだ。それこそ一晩中かけて話しても話したりないぐらいに。
組織壊滅後から赤井はずいぶんと話しかけてくれるようになった。以前が無愛想すぎたのだとも思えるが、いまではフロアの喫煙室を通りがかると、ガラス張りの窓越しに手を振ってくるし、相談したい案件があってスマホで呼び出せばすぐに降谷の職場に顔を見せ、隣のデスクを陣取る。そうして、「今夜ちょっと呑みに行かないか」と気軽に誘ってくるのだ。
最初の頃は「仕事がまだ終わらないので」と距離を置いていたが、相手もやっと肩の荷が下りて気が楽になったらしく、標的を組織から自分に切り替えたようだ。というのは図々しいだろうか。
ちょくちょく誘いを受けるし、降谷としても過去についてひとつ大きなハードルを越えられた気分だったこともあって、だんだんと赤井を受け入れるようになった。
互いに失ったものは数知れず、傷跡を見せ合えばそれこそ幾夜明かしても語り尽くせないだろう。降谷にとって今日という日は明日に繋がるステップのようなものだ。過去に清算をつけたというにはまだもう少し時間がかかりそうだが、同じ痛みを知る者同士として赤井と言葉を重ねていくのも悪くない。
知らなかったことを、少しずつ知っていく。
残された者にとってそれは大切な義務だろう。残務処理に当たっているとき強くそう思う。渦中にいたときはあまりに精力を注ぎすぎて見えていなかったことも、離れてみれば輪郭がはっきりしてくる。
赤井についても同じ事が言えるのじゃないだろうか。
「君もフリーマーケットに来たのか」
「そうです。古着を買う趣味はなかったけど、まあたまにはいいかなと思って。ていうか、その紙袋」
赤井が手にしている茶色の紙袋を指し、「……あの」と舌でくちびるを湿らせる。
「中身、見せてもらえませんか?」
「中身?」
赤井は不思議そうな顔をしているが、「まあ、いいが」と頷く。
「ここではひとの邪魔になるだろう。そこのベンチに座ろう」
あたりを見回し、ふいっと赤井は歩き出す。
「あ、おいこら」
さっさと行ってしまう男を慌てて追いかけた。周囲はフリマの客で賑わっていてどこのベンチも埋まっている。だからふたりで人混みを抜け、公園の端まで歩いてきた。ちょうど桜の樹がよい影を落とす下に空のベンチを見つけたので、そこに座ることにした。少し距離を開け、降谷は赤井の膝に置かれた紙袋を見つめる。なんの刻印もないので、たぶん卸業者かネットショップでまとめ売りされているものだろう。
ブラウンのベンチの背もたれに深く背を預けたいところだが、こころがはやって前のめりになってしまう。我ながら落ち着きがない。
「これの中身が見たいんだったな」
「はい」
ゆったりと長い足を組む赤井がなるほど、と頷く。なぜか面白そうな顔だ。
「見せたらなにかいいことがあるのか」
「いいこと?」
は? と目を瞠る。いいことってなんだ。こんなところで駆け引きを要求されても困る。
「いや、べつにただ、僕の求めているものだったらちょっと交渉したい気分ではありますが」
「なるほど。交渉か」
なにが可笑しいのかふっと笑い、赤井は紙袋をのぞき込んで中身を取り出す。
「あ……!」
陽射しを受けてやわらかにピンクとブルーが輝いている。チェック柄のネルシャツはやはり先ほどのブースで見つけた一枚だ。
「ちょっと見せてもらってもいいですか」
「ああ」
受け取って、あらためてシャツがしっくり手に馴染むことを知る。地色はやさしいクリームベージュで、何年着ても飽きが来なそうだ。前の持ち主はどうしてこのシャツを手放したのだろう。
「いい色だな、やっぱり」
「ベーシックな色合いだが、着やすそうだ」
「これ、赤井が着るんですか?」
黒ばかり着ている男なのに、こんな明るいシャツを着ることもあるのだろうか。彼のクローゼットをのぞいたことはないけれど、闇夜に紛れ込んだのかと思うような光景だと思うし、あながち外れていないだろう。
「あなた、黒しか着ないんじゃんですか」
「たまにはこういうのもいいと思ってな。なにより手触りがいい。この風合いは新品じゃ味わえん」
「僕もそう思います。でも、あなたにはもっとはっきりした色が似合う気がしますが」
「降谷君に似合いそうだな、このシャツの色は」
「そうでしょう?」
咄嗟に口をついて出た言葉に、瞬時に頬が熱くなる。
いまのはさすがに食いつきすぎだ。話を進めすぎた。もっとこう、外堀から埋めていってだんだんと輪を狭め、うまいこと、『俺よりも君のほうが似合うよ』と自然と言わせるつもりだったのに、想像以上に早い段階でそれとほぼ同じ言葉が赤井から漏れ出たのだから勢いよく突っ込んでしまった。
赤井はちょっと驚いたように眉を跳ね上げたあと、可笑しそうにちいさく笑う。そういう顔も和解前後には見られなかったもので、――そうか、もうあれから半年経ったんだなとあらためて思う。
二人の間にはまだ幾つかの溝があるし、それはこれから時間をかけてゆっくり埋めていけるものだとなんとなくわかっている。
このシャツはいいきっかけになるかもしれない。
「あの、これさっきのブースで買ったんですよね。いくらでしたか」
「一万五千円だ」
「二万円出しますから、僕に売ってくれませんか」
回りくどい言い方は好まないのでストレートに言う。
「二万五千円……三万円でもいいです」
「それだけあったら結構いいシャツが新品で買えるだろう」
「でも、そのシャツが欲しいんです」
「なぜだ」
なぜと言われても、一目惚れしたからとは言い難い。もごもごと口ごもりつつ、なにか適当な言い訳がないかと探すのだが、これといった言葉が浮かばない。
そもそも、古着のシャツに惚れたと素直に言ったところで、赤井には大笑いされそうだ。なんとか別の切り口を見つけたい。
手にしたシャツをじっくり見れば、襟元も袖口も綺麗なものだが、左のボタンがひとつ取れかけていた。糸が緩んでいるので、このまま着たらいくらも経たないうちに外れてしまうだろう。こういうブランドシャツは替えのボタンが別添えになっていることがほとんどで、内側のタグには縫い付けられていない。裏返してみたが、やはりそうだ。
「替えのボタン、ないんですね」
「そのようだな」
「袖口のここ、ボタンが取れかかってます。あまり保たないでしょうね。ああ、それと裾もほつれています。繕わないとちょっとこれでは。僕なら簡単にできますけど」
「そういうのも古着の醍醐味じゃないのか?」
てんで堪えない赤井に苛々してくる。いいから黙って売ってくれと言いたいのだが、横暴すぎるだろう。
あれこれと考えを巡らせ、そうだと思いつく。
「これ、僕が繕いますよ。そう時間がかかるものではないし、いまからうちに来ませんか?」
「降谷君の家に?」
さしもの赤井も目を丸くしている。シャツのポケットから煙草のケースを取り出そうとして、この公園内は決められた場所でしか喫煙を許されていないことを思い出したのだろう。一本煙草を咥えたものの、降谷の視線を感じてパッケージに戻している。
彼が重度のヘビーススモーカーであるのは昔から変わらない。ライの頃から次々にチェーンスモークし、セーフハウスの灰皿に吸い殻を山のように盛り上げていたのを覚えている。
「うちでは禁煙ですけど、ベランダを使うぐらいなら。コーヒーもお出ししますよ」
シャツを譲ってもらうためなら赤井の灰皿用に気に入りの小皿を犠牲にしてもいい。
――頼むから売ってくれ。
触れば触るほど欲しくなってくる。物への執着が薄いほうだとは思っていたのだが、これというものに巡り会っていなかっただけだろう。このままシャツを掴んで走り去りたいところだが、さすがに公安という立場上窃盗はできない。立場がなくてもできないが。
和解したとはいえ、赤井を自宅に招くという衝動に自分でも驚いているが、このシャツは新品ではない。ということは一期一会だ。店に行ってももう売っていない商品だし、年月をかけて愛されたシャツを今度は自分の体温で馴染ませてみたいという考えが頭から離れない。
「べつになにもない家ですが、ちょうど昼時ですし、なにか軽いものでも作りますよ。赤井、腹減ってますか?」
「それなりに」
「じゃ、パスタはどうですか。今日は茄子とボロネーゼのパスタを食べようと思っていたので。バゲットも出しますし、インスタントですが美味しいと評判のコンソメスープも出します」
あと、と付け加えたのは、彼の目の下の隈を見て取ったからだ。
「キウイとルッコラ、リコッタチーズのサラダも出します。あなたはどうも栄養が偏りすぎだ。ゼリー飲料や栄養補助食品に頼りすぎですよ」
「外食もする」
「それだって栄養満点というわけではないでしょう。ライだった頃はともかく、いまはFBIを代表するひとりなんですからもっと健康に気を遣わないと。赤井、日本の血を引いてるんでしょう? 嫌でも長生きするんだろうから、いまから頑丈な身体を目指してくださいよ」
「相変わらずだな君は」
大仰に肩を竦める仕草が気障だが、赤井という男にかかるとやけにしっくりはまっているから嫌になる。
「そこまで心配してくれるのは君ぐらいなものだ」
「そんなことないでしょう。あなたの仲間だって絶対心配してます。スターリング捜査官だってジェイムズさんだって」
「ふふ、彼らは彼らで多忙だからな。自分の仕事で精一杯だ。でも、チーズのサラダか、旨そうだ。お邪魔してもいいかな?」
そのシャツと引き換えにしたいんですけどね。
こころの中で呟いて、とにかく家に招くことにした。気分を一新させようと米花町の外れに新しくできたマンションを借りた。赤井はアメリカから一時的にこちらに来ているという立場ではあるものの、FBIが用意した宿泊施設のひとつであるマンション住まいだと聞いている。彼は隣町の杯戸町に住んでいるので、生活範囲は異なる。なのに、今日公園で会った。
以前だったら発信器でもつけられているんだろうかと訝しんだだろうが、わだかまりがなくなったいま、――たぶんほんとうに偶然なんだろうな、あのシャツを互いに手に取ったのも、と思えるほど見上げた空は青かった。
「どうぞ、気兼ねなく上がってください」
「お邪魔します」
妙に礼儀正しい言葉が可笑しい。なんだかんだ言って日本の血を引いているのだなと思わせられる瞬間だ。
「すみません。引っ越した直後なんで客用のスリッパがないんです。一応掃除してあるのでそのままどうぞ」
「いや、大丈夫だ。綺麗な部屋だな。緑のカーテンが君らしい」
「仕事続きで庁舎に詰めてるとあまり帰ってこられませんが、せめて自宅ぐらいは居心地よくしたいので」
家具はまだ少ないが、二人掛けのテーブルはオフホワイト、ソファはやわらかなベージュを選んだ。クッションは二つ、黄色と緑のカバーにした。テレビボードは赤みが美しいワイルドチェリー。毎日のニュースを見るために大型液晶テレビを買ったばかりだ。
「どういう部屋の造りになってるんだ?」
「2LDKです。ひとり身にはちょっと広いですけど、寝室とリビングが別というのはいいですね。ゆっくり眠れます。すぐランチにしますか?」
「そうだな。今日はまだコーヒーしか飲んでないんだ」
「まったく、早死にしますよもう」
ため息をついて、リビング続きのオープンキッチンに入る。赤井は窓から外を眺めていた。十二階建ての七階なので、それなりに眺望がいいはずだ。
「いい眺めだな。さっきの公園も見える」
「早朝のジョギングコースにぴったりなんですよ。一周するとちょうど五キロぐらいになるので。プールもありますし、トレーニングセンターもあるんです」
「ストイックな君らしい」
くすりと笑う赤井をよそに、降谷は上着を脱いで手早くランチの準備を始める。ボロネーゼは作り置きの冷凍があるのでそれを解凍し、茄子と一緒に炒めてソースを作る。隣の鍋でパスタを茹で、冷蔵庫からタッパーを取り出した。中には昨夜作ったリコッタチーズが入っている。キウイとルッコラをボウルに盛り付け、ちょっと考えて生ハムも付け足した。赤井の逞しい身体を考えたらパスタぐらいでは足りないだろう。ついでにバゲットも切ってトースターで軽く炙り、その間にインスタントのコンソメスープにお湯を注ぐ。
「美味しそうな匂いだ。なにか手伝うことはあるか?」
「だったら、お皿を運んでもらえますか」
「了解」
降谷が青と白のランチョンマットを敷き、赤井が料理が載った木製のトレイを運ぶ。そして一皿一皿セッティングし、降谷がフォークやスプーンを置いたらできあがりだ。
向かい合わせに座ると、赤井は物珍しそうに皿を眺めている。
「どうぞ、食べてください」
「ありがたくいただく」
パスタをフォークに巻き付けて頬張る赤井が、「ん」と目を瞠った。
「――旨いな」
「当然です。手作りのソースですから。ほんとうはパスタから作りたいんですけどね。リコッタチーズもよくできてる、昨日寝る前に仕込んだんです。僕の自慢の一品ですよ」
「このチーズも降谷君が作ったのか?」
「そうですよ。牛乳と生クリームを混ぜれば簡単にできますから。サラダにも合うし、パンケーキにもいいんですよ。チーズと言っても冷蔵庫で冷やすだけでいいし、食べたいときに食べたいだけ作れるんです。もっと発酵が必要なチーズは無理ですけど、こういうフレッシュなチーズは手作りに限りますよね。あ、もう少し取り分けましょうか」
赤井は黙々と食べ続け、あっという間に取り分けたサラダを空にする。降谷はトングを掴み、ボウルからお代わりを盛り付けてやった。こうなることを見越して多めに作っておいてよかった。バゲットももうない。
「濃厚で塩っ気もあってクリーミーだ。クラッカーにも合いそうだな」
「ですね。ワインにも合います」
「酒はないのか」
「昼からですか? あるにはありますけど……呑みます?」
「あるなら呑もう」
そう言われたら無下に断れない。未開封のクラッカーと、ちょうど冷やしていた白ワインがあるので、それを開けることにした。綺麗に磨いたグラスを二つ用意し、ボトルを傾けようとすると赤井がさりげなく手を掴んでくる。
「俺が注ごう。なにからなにまで君に任せっぱなしなのも悪い。後片付けも手伝う」
「いいですよ。家に招いたのは僕なんだし。このワイン、美味しいですよ」
このぐらいの食事で気を良くしてくれてシャツを譲ってくれるなら助かる。どんどん呑ませていい気分にさせ、ついでにシャツもいただいてしまおう。
二人で乾杯し、ゆったりと食事を続ける。
忙しない普段からは考えられないぐらい優雅なランチだ。
「ブルーチーズもありますから出しましょうか」
「いいな。まさかそっちも自家製とか言うんじゃないだろうな」
「はは、さすがに店で買ったものです」
気に入っているブルーチーズを切り分けて木皿に載せて赤井の前に出す。
独特の風味があるチーズは気に入っているショップで買い付けているもので、これで一杯やるのが降谷のささやかな楽しみだった。終始仕事で忙しないし、呑みに行くとなると職場の仲間で、という事がほとんどだ。そもそも仕事以外になにか趣味があるわけではい。任務に必要ならば嗜むが、基本的には朝から晩まで、それこそ目が覚めてまた瞼を閉じるまで絶え間なく仕事の事ばかり考えている。
だからこうして、合同チームを組んだとはいえ赤井のような人物とサシで呑むというのは稀な出来事で、存外悪い気分ではない事に降谷自身が驚いていた。いまのこの時間は仕事抜きと考えてもいいのだろうか。休日にばったり出くわした赤井を家に連れ込み、テーブルを挟んでワインを呑んでいるなんて不思議だとしか言いようがない。
赤井はチーズを囓り、至極満足そうな顔でワインに口をつけていた。
「君とこうしてゆっくり呑める時間が欲しかったんだ」
こころの裡を見透かしたかのような言葉にドキリとなる。「え」と返しつつもワインを啜り、物足りないのでお代わりを注ぐ。
「僕と、ですか。でもいまだって結構顔を合わせてるでしょう。なんだかんだ言って組織時代から考えたら長い付き合いなんだし」
「そうだな。もうずいぶんと長いこと一緒にいるが、大切な事はあまり知らない。君が降谷零という名前で二十九歳、日本の公安のエースである事ぐらいしか。ボクシングとテニスと料理が得意で、喫茶ポアロで出してくれてたサンドイッチは絶品だったな」
「沖矢の姿でちょくちょく来てましたもんね、あなた」
薄く笑うと、赤井は悪びれもせず「まあな、あの味はどうやっても再現できないから」と嬉しい事を言う。
「最近、ポアロにはもう行ってないのか?」
「まあ、そうですね。一段落ついたこともあって安室として立ち回る事は当面必要なくなったので、円満退職しました。とは言っても結局同じ町内ですから、子どもたちと会えば前と変わらず安室の顔で挨拶しますよ。その点、赤井はいいですよね。沖矢という男を作り上げて接触を図っていたんですから、後腐れなく姿を消す事ができたでしょう」
幾分かの嫌みを交えて言うと、赤井は思案顔で顎をさすっている。
「実際、未練がまったくないというわけでもない。沖矢の立場は難しいものもあったが、楽しい事も多くあった。普段、あれぐらいの子どもたちとは付き合わないんでな」
少年探偵団の事を言っているのだろう。元太、光彦、歩美の三人と、無理に解毒剤を使わなかった灰原哀は新たな人生を勝ち取るためにいまも阿笠邸から米花小学校に元気に通っていると知っている。ただひとり、工藤新一だけは解毒剤を使って元の姿を取り戻し、長い不在の言い訳に四苦八苦しながらも蘭のそばに帰っていった。
あるべきところに正しいピースがはまっていく流れを見守る傍ら、降谷も日常を淡々とこなし、いまに至る。騒動が収まってからの後の周囲はわざわざ自分が手を出すまでもなく、穏やかに、時々はつまずきながらも皆平常に戻っていった。それが少し寂しい反面、これでよかったんだと思えるこころもある。
「残務処理に当たっていると、どうもいろんな事を思い出してかなわんな。感傷的になるたちではないんだが」
おそらく降谷と同じ心境だったのだろう。赤井の言葉に浅く顎を引き、彼のグラスにもワインを注ぐ。
「事件が起きない限り、僕らみたいな者は必要とされませんから。でも、これが正しいんですよ。そうそう毎日発砲や爆発があったらとても眠れません」
「そういう君はバーボンの頃よくセーフハウスで熟睡していたように思うが」
「あれは耳栓とアイマスクを使ってしっかり防御してたんです。睡眠と食欲は基礎的な武器ですから」
「なるほど」
うん、と頷いて赤井はしばし考え込む顔をした後、するっと言った。
「では性欲は?」
「――は?」
「食欲と睡眠欲と性欲の三つはセットだろう。セーフハウスで君がひとり抜いていた場面にはついぞお目にかからなかったが」
「な……! なに言ってるんですかあなたは」
昼から呑みすぎですよとワイングラスを取り上げようとしたのだが、彼のほうは面白そうに笑ってかわすだけで、「いやいや」と頭を振る。
「あれだけ一緒に任務をともにしたのに、色っぽい君を見ることはなかったのが残念だった。単独作戦の時ですらハニートラップはしなかったのか? 俺は先に申告しておくが、あまりなかったな。どうも口が悪くて相手の機嫌を取る事ができない。そういう点、バーボンはずば抜けて美しくて有能だった。口も達者で、君に話しかけてもらえた相手は即座にのぼせ上がっていただろう。あれは、なんなんだ。生まれつきの性質か、それとも特訓の成果か?」
「今日はよく喋るなFBI。酒が回ってるせいか」
昼日中の室内は暖かく、酔いも手伝って身体が火照る。無意識にシャツの袖をまくり上げ、勢いとばかりにワインボトルをグラスに傾けた。軽い飲み口とはいえ、かなり強い。悪い呑み方をすればあっという間に酔うとわかっていながらも、こんな話、しらふじゃ到底できない。
「お喋りは得意なほうなんですよ、昔からね。相手がなにを喋りたいのか、目線や仕草を見れば大抵見当が付く。恋愛ののろけ話とか、家庭や仕事の愚痴だったりとか、糸口はささいな事でいい。それをたぐり寄せて執念深く引っ張る事で、案外たやすく対象者のこころの内側に入れますよ。秘訣が一つ、あります。訊きたいですか?」
「ぜひとも。アドバイスしてくれ」
強い声で求められると悪い気分ではないので、降谷はいささか得意な心持ちで顎をつんと反らす。そうすると視線は斜になり、相手に不遜だという印象を与える事になるだろうが、いまの相手は赤井だ。多少の事は許されるだろう。
「まず、自分から弱みをひとつ晒すんです。どんな事でもいい。過去の出来事でもいいし、いま抱いているコンプレックスでもいい。失恋の話でも仕事の失敗談でも。あなたを信じていますよという証のために、自ら弱点を明かすんです。あまり深刻にならず、でもちょっといまでも引っかかっているというような、苦笑交じりでね。これでたいていの相手の牙城は崩せます」
「恐ろしい男だな、君は」
ため息をついている赤井に愉快な気分がこみ上げてくる。射撃の腕前では彼に敵わないものの、心理戦では自分のほうが長けている。
「そこから少しずつ斧を入れてい君です。相手の顔色や目の動きなんかを見つつ、深いところを探っていく。こっちがまず胸の裡を明かさない限りは警戒心を抱かれますからね。――僕は降谷零、二十九歳の日本人で公務員です。恋人はいません。趣味は料理で、苦手なものは……なんだろう、ぼうっとすることですかね。どうもワーカホリック気味なんですよ」
こんなふうにね、とさりげなく付け加えると、赤井はほうと感心したように息を吐く。
「そんなふうにひとに取り入るのか」
「そうです。それが仕事ですからね。それから手先が器用なほうなので、ハンドメイドはたいていできるほうです。裁縫も得意ですよ。あなたがさっき買ったシャツ、ボタンが緩んでいたでしょう。あれ、出してくれます? 直しますよ」
「ああ、そういえばそうだったな」
すっかりシャツの存在を忘れていたのか、あ、という顔をした赤井が床に置いていた紙袋をそのまま渡してきたので受け取った。酔っていてもボタンを繕うぐらいお手のものだ。立ち上がってキッチンカウンターの端に置いてある木目のボックスを手にする。そこには簡易的な裁縫セットが入っていて、ワイシャツを着ることが日常の降谷にとって欠かせない相棒だ。もちろんシャツ自体はまとめてクリーニングに出しており、ボタンが緩んでいれば業者が丁寧に縫い付けてくれるのだが、気づいた時に自分で直すのもまた楽しい。
銀の針に白い糸を通し、手にやさしく馴染むネルシャツをたぐり寄せる。糸は玉結びをし、生地の裏に丁寧に縫い付けていく。四つ穴ボタンに糸を通して根元に少しの遊びを作りながら縫い止めていくのがコツだ。ここできっちり止めてしまうとボタンが外しにくくなる。
慣れた手つきで左袖のボタンを縫い直し、ついでに胸元のほつれと、右袖も片付けてしまう事にした。縫い物をしている間集中できるのが好きだ。なにか、時間と気持ちまでもそこに封じ込めておけるような気分になるからだろうか。
べつにたいした想いではないのだが、既製品を買って数え切れないほど洗濯し、ボタンの糸がほつれて縫い直した時、ようやくほんとうに隅々までもが自分のものになった気分になるのが嬉しい。
「このシャツ、どうして売りに出されたんでしょうね。ボタンが緩んでいた以外は綺麗な状態なのに」
「飽きたんじゃないのか? それとも体型が変わったとか」
「こんなにいい色に褪せたのに飽きるのか……」
もったいない、と呟きながら降谷は古着のシャツを繕っていく。これを買った赤井本人に頼まれたわけではなく、ただうまい事そそのかしてあわよくばぶんどりたいだけだ。
手作業をしているといろいろなことを考える。
この手でずいぶんと多くの人間を殺してきた。赤井も自分も。それがたとえおのおのに課せられた任務とはいえ、正義の名の下に銃を所持し、標的にはためらいなく発砲した。体術で制圧したことも多くあるし、それこそ潜入時代は非合法な作業に手を染めることも多々あった。人の会話は盗聴して当然だし発信器だって難なくつける。ターゲットの居場所や会話を掴んで追い詰め、最後にはその命を奪うのが仕事だった。
――でも、僕はいま生きている。彼も。そして、平穏な午後を過ごしてシャツを繕っている。この穏やかさを享受するに値する人間なんだろうか僕は。赤井は?
「――あなたは、任務で人殺しをした事を後悔していませんか」
「ないな」
即答されて、針を進める手が止まった。
乾いた声に泉も木陰もない索漠たる光景が浮かぶ。彼がプロのスナイパーであることを実感するのはこんなときだ。一ミリでもためらいを感じたら務まらない仕事だ。最初から倫理観が欠落しているのか、それとも圧倒的な理性で抑え込んでいるのか。
では自分はどうなのかともし問われていたらやはり同じように返していただろう。ある種の人間性を犠牲にしてこの職務は成り立っている。正義とはそういうものだ。
「一度も?」
「ない」
赤井はうろうろと胸ポケットを叩いているので、降谷はため息をつき、キッチンから新品の小皿を持ってきて空気清浄機のスイッチをつける。そしてリビングの窓を開け、「どうぞ」と言った。
「煙草、吸いたいんでしょう。お好きにどうぞ」
「いいのか? ベランダに出るつもりだったんだが」
「煙と匂いが隣室に流れて文句言われても困りますから。いいですよ、べつに。ライだった頃を思い出せば慣れてます」
「すまない」
どこかほっとしたような顔で赤井は煙草のソフトパッケージを取り出し、かさかさと振る。そうして一本口の端に咥え、パッケージに挟んでいたブックマッチでシュッと火を擦り、手をかざす。一連の慣れた仕草は煙草を吸わない降谷でも思わず見とれる。
旨そうにひと口吸い込んだ赤井は顔をそらし、煙を吐く。
それを見ていたら、なんとなくリクエストしたくなった。ほんとうにどうでもいいことを。
「あれ、できます? あの、わっか吐くやつ。昔の機関車みたいに」
「ああ、これか?」
赤井は指に煙草を挟んで思いきり吸い込んだあと、くちびるを上手にすぼめてぽっ、ぽっと煙のわっかを吐く。ゆらゆらした白い輪の中にちいさな輪が抜けていくのを見て、「へえ」と降谷は顔をほころばせた。
「器用なもんですね。なんかコツってあるんですか」
「考えたことがない。たぶん俺も誰かを真似て格好付けて始めたんだろう。そもそも煙草なんてそういうものだ。大人の男に憧れる時期があるというか」
「あなたにもそんな頃があったんですか」
「ああ、あったさ。手が着けられないほど可愛いティーンの頃がな」
煙草をくゆらせて笑う赤井は楽しそうだ。鋭い目元にいまもうっすらと残る隈、そぎ落とされた頬といいどう考えても可愛い子供時代があったとは思えないのだが、まあそういうことにしておこう。
「いつか機会があったらちいさな頃の写真でも見せてくださいよ」
「では、今度家に来るか?」
リップサービスで言ったつもりが存外にも温かな言葉で迎えられたので一瞬戸惑う。
「赤井の家……というといまはアメリカですか」
「ああ。日本と行ったり来たりだが、アルバムの類いは向こうにある。今度ぜひ君にも来てほしい」
熱心にも聞こえる口調だが、あらためて見ると赤井は平然とした顔だ。感情が面に出ない男だということは昔から知っているはずだが、せめて誘うときぐらいもう少しわかりやすくしてくれないかと内心思ってしまう。
「君をDCに迎えてあちこち案内するのは楽しそうだ。任務以外でアメリカに来たことは?」
「観光目的ということですよね。ないです」
「なら俺がエスコートを申し出よう。旨い肉をたっぷり食わせてやる」
「あなたらしいな。野菜は絶対フライドポテトなんでしょう」
「それのなにがだめなんだ」
「これだからアメリカの考え方は」
赤井を真似て大仰に肩を竦め、その間にも始末を終えていたシャツから糸を切り、修復した箇所を眺めてみる。自分で言うのもなんだがいい出来だ。ボタンも綺麗に縫い付けられたし、他のほつれも直せた。
「いいですよ、できました。着てみます?」
「ああ、ありがとう」
煙草を小皿に押し付けて潰した赤井がぬっと立ち上がり、そのままそこでやおら黒いシャツを脱ぎだした。突然のことに呆気に取られて固まったが、するっと肌をあらわにする男に「ちょ、ちょっと!」とストップをかける。
「なんでいきなりここで脱ぐんですか! 羽織るだけでいいでしょうに」
「いや、俺が着るならじかに着ないと窮屈かと思って」
言ってるそばからボタンを三つ四つ外していく赤井はなにが困るんだという顔だ。いや困る。いくら同性とはいえ慎みに欠けるのではないか。警察学校にいた間男同士の奔放なやり取りには散々揉まれてきたほうだが、いい大人になって、しかもたったいまランチを食べ終えたばかりのテーブルで半裸になられたら挙動不審になるほうが当たり前だ。
堂々とシャツを脱ぐ赤井からぱっと顔を背けたつもりだった。
だが、一瞬のうちにすべてが目に焼き付けられてしまった。広い肩幅、みっしりと上等な筋肉が詰まった胸、見事なまでに割れたシックスパック。ついでに言えば高い位置にある腰骨の先端もちらっと見えた。密度の高そうなその骨の切っ先にごくりと喉を鳴らし、蜂蜜を一滴だけ垂らしたような白く美しい頑丈な肌にも見入ってしまいたくなる衝動を必死に堪え、降谷は慌ててうつむく。
「は、早くシャツ着てください」
「そんなに恥ずかしがらなくてもいいだろう。組織時代はひとつのシャワーを使って浴びたこともあったじゃないか」
「ありましたけど、あれは仕事だったからいいんです。なんで食後にあなたの半裸を見なきゃいけないんですか」
「意外とうぶなことを言うな、君は。もう着たぞ。ほら、顔を上げてくれ」
ちりちりと耳たぶが熱い。無意識にそこを指で揉みながら不承不承顔を上げると、ネルシャツに袖を通した赤井が「どうだ?」と腰に手を当てている。
無愛想な面しか目に付かなかった男なのに、いざ現場を離れてみればこんな顔をするのか、というのが第一印象だ。どこか得意そうな赤井はいましがた降谷が繕ったシャツを見せびらかしている。黒のニット帽は相変わらずなので、やわらかなチェックシャツがいささかミスマッチだ。それでも彼の厚みのある身体を引き立てるためにシャツはピンと張り、洗いざらしの布がこなれた雰囲気を醸している。
「袖がちょっと短いな。肩幅も少し窮屈だ」
袖口を引っ張ってみせる赤井に「自慢ですか」と鼻を鳴らすものの、確かにそうだ。超一級のスナイパーらしく腕の長い彼にはアメリカンサイズも追いつかないらしい。もうワンサイズ上なら余裕を持って着られるだろう。
「似合わないわけじゃないですけど、やっぱりあなたには黒や赤といったはっきりした色がふさわしい気がします。そうじゃなければ青とか白とか」
「パステルカラーはだめか」
「だめというわけではなくて、赤井の骨っぽさを生かすなら原色のほうがいいかなというか……」
言いかけて、自分の言葉の妙にふと気づく。
不覚にも彼を褒めているような形になってしまった。そんなつもりはみじんもないのに。
盛り上がった肩にネルシャツは不憫にも引っ張られているし、胸のあたりもパツパツだ。さすがに上までボタンが留められなかったのか、二つほど外してあるのがなんともいたたまれない。そこから張り詰めた肌が垣間見えるのだ。
「あの、似合うか似合わないかはもういいので着替えていただけませんか」
「お気に召していただけなくて残念だ。この色はやはり君のほうが似合うだろうな。着てみてくれないか」
またも怖じけずに脱いで元のものに着直す赤井が、ふんわりとネルシャツを渡してきたのでぎょっとした。かすかに体温が映ったこれを着ろというのか。
「降谷君、このシャツを欲しがっていただろう? 似合うかどうか見たい」
「欲しいとは言いましたけど……わかりましたよ。着替えてきます」
「じゃあ、ここで」
「お断りします。ストリッパーの気質はないので」
憤然と立ち上がり、バスルームに籠もって扉の鍵をかける。それから鏡を見ると、うっすらと頬を赤らめた自分がそこに映っていた。
――なにを意識してるんだ。ただシャツを借りて着るだけじゃないか。
己を奮い立たせ、シャツを脱ぐ。それから赤井に借りたネルシャツを羽織ると、温かくて、かすかに煙草の匂いも移っていることに気づき、ギュッと裾を掴んだ。
どくどくと心臓が波打っている。
なんだこれ、なんなんだこれは。
一時赤井が袖を通しただけではないか。なのに彼の温もりと香りがもう染み込んでいて、胸がばくばくとうるさい。
まるで、赤井に背後から抱き締められたみたいだと思ったら急激に体温が上昇する。ぐっと奥歯を噛み締めて裾からひとつずつボタンをはめていき、一番上は外しておく。それから袖をラフにまくり上げ、襟を少しだけ広げて鏡を見直した。
色香ある肌にやさしいパステルカラーはしっくり馴染んでいる。喫茶ポアロに潜入していた時代、よくオフホワイトやピンクの服を着ていたので、こうした色には抵抗がないほうだ。
それに、サイズ感もちょうどいい。袖口は手の甲の三分の一まで来るので、二まくりぐらいしたほうがいいだろう。肩もふわっと包まれているし、尻の半分ほどまで隠れる長さもベストだ。そこで、降谷はむっとする。赤井とのサイズ違いにあらためて気づかされたからだ。
一回り、いやもう少し自分のほうが細身であることは確からしい。身体の厚みも彼には劣るし、腕の太さも。袖口からのぞく手首を自分で掴み、渋面になった。
――あいつの手首はもっとしっかり太かったな。
腹が立つ。違いを比べても致し方ないのだが、同じ男としてこうも体格差が出るとおもしろくない。自分とてそう華奢というほうではないのに。
あらためて鏡を見たものの、やはり肩のあたりが余っている。これを売ろうとしてくれていた店主も「オーバーサイズで着たらいいよ」と言ってくれていたので、当たっているのだろう。けれど、ついさっきこれをきつきつに着ていた男がいたと思うと神経がささくれる。
不満げな顔を隠せないまま赤井の前に出ると、彼は目を瞠り、ぱっと顔をほころばせる。
「似合うじゃないか。やさしい色合いがほんとうにキュートだ。君のためにあるようなシャツだな」
「褒めすぎです。それに僕は一応もう三十路に足を突っ込んでるんですよ。キュートなんてもんじゃない」
「わかってないな。俺は見たものをそのまま正直に口にする性格だ。うん、ちょっとくるっとしてくれ」
眉を曇らせたまま降谷はくるりと一回転する。肌に馴染むシャツは心地好いものの、じろじろと眺め回してくる赤井の視線に落ち着かない。
「そのシャツは君にプレゼントしよう」
「は?」
腕組みをした赤井が再び煙草を手にする。今度は火を点けずに、咥えたまま喋る。
「君が先に見つけたんだろう? 気に入ってるんだろうし、実際に似合っている。旨い食事を食べさせてくれた礼もしたいし、シャツを受け取ってくれ」
「でも、あなただってこれを気に入って買ったのでは」
「うん、まあ、たまにはこういうのもいいかと思ったんだが、やっぱり黒のほうが落ち着くな。その代わり、ひとつ願い事を叶えてくれてないか」
「なんです」
たちまち警戒してしまう降谷に、赤井は鷹揚に手を振った。
「次の休みに一緒に出かけないか。映画でも観て食事をしよう。そのシャツを着てきてほしい」
「それは――」
まるでデートの誘いではないか。
じわりと頬が熱くなるのを感じてシャツの裾をぎゅっと握る。
シャツを譲ってもらえるのはありがたいし、正直嬉しい。一緒に出かけるのも、そう嫌ではない。だいたいさっきともに食事をしたぐらいなのだし。
だが、赤井とふたりきりで会い続けていくうちになにかが大きく変わりそうなのだ。
それがなんなのか、突き詰めて考えたら結構怖い答えが出そうだ。
「とにかくシャツは受け取ってくれ。約束は来週の土曜、昼の十二時に君を迎えに来る。時間は早すぎるか?」
「い、いえ、大丈夫ですが」
「美味しいランチをありがとう、降谷君。また来週会おう」
そう言って、赤井はテーブルを回り降谷の前で立ち止まる。
正面に立たれると、その身体の分厚さに正直驚く。発散する熱量がまるで自分とは違う。自身だって現場に出ていた男のひとりとして鍛え抜いてきたつもりだが、赤井の厚みのある身体は雄そのものの迫力で、落とす影の濃さまで違うのではないかと思えて気圧される。
「あ、の」
赤井がふと腕を組む。袖をまくった部分からのぞく腕には太い筋が入り、上質の筋肉を潜めている。男っぽい大きな手に目をやると思いのほかしなやかで美しく長い指をしていることに気づいた。当然だ、彼はFBIきってのスナイパーだ。商売ものの左手は感覚が鈍らないよう、充分に気を配っているのだろう。
男の手が美しいと感じたのは初めてで、不覚にも動揺してしまう。
――何年こいつを見てきたと思ってるんだ。いまさらそんなことを思うなんて僕はどうかしてるんじゃないのか?
赤井の指が思い惑うように持ち上がり、降谷の顔の前でうろつく。まじないでもかけられているような不思議な気分に陥っていく。
空を引っ掻くような仕草に夢中で見入っていると、赤井はなぜだか照れくさそうな顔で指を引っ込め、自分の頬を掻いた。
「では、またな」
「……はい」
うろたえた降谷を残して、赤井は出ていった。
シャツを握り締めたまま降谷は圧倒的な熱がようやく自分のそばから離れていったことに息を詰め、赤井が出ていってから充分経った頃に細く長い息を吐いた。熱っぽい吐息が喉を焼き、ちりちりと指先が熱くなる。そこからほのかな火が生まれ、胸に至るまでさほど時間は必要としない。
気づけば降谷はシャツごと自分の胸を鷲掴みにして立ちすくみ、いつまでも赤井が出ていった方向を見つめていた。
なんなのだ、この掴み所のない胸を刺す
次の土曜が来るまで、降谷はそわそわしっぱなしだった。いままでに何度も危ない橋を渡ってきたというのに、ここまで挙動不審になったことがあっただろうか。任務をこなすときは、まったく違う感情で動いていたように思う。公安として機密情報を盗むためには相応の覚悟と知恵、技術が要ったが、ことプライベートになるとあまり他人に関心を向けてこなかった気がする。そもそも仕事が仕事なだけに、ひととは一線の距離を保つようにしてきた。つねにこちら側には上手に踏み込ませず、引き出したいものだけ頂いてきたのだ。それが赤井相手だと調子が狂う。気もそぞろで仕事をなんとかこなし、とうとう週末を迎えた。
「シャツ、もらったし」
土曜の朝六時半には目を覚ましていた。赤井が来るのは十二時だからまだだいぶ余裕がある。
とりあえずシャワーを浴びて全身を綺麗に洗い上げ、ドライヤーをかけながら壁に掛けたタブレットPCで今日のニュースをチェックする。眠っていた間に大きな事件や事故は起きなかったようでなによりだ。
朝食はどうしようかと考え、いつもより少し軽めに食べることにした。なにせ、この後は赤井とのランチが待っている。そういえばなにを食べるか聞いていなかった。洋食か和食かだけでもわかれば、朝食が決められるのに。
いつもなら迷わないことにもたもたし、結局トーストとスクランブルエッグ、ベーコン、ボウル一杯のグリーンサラダにブルーベリーヨーグルトという無難なメニューに落ち着いた。
料理は好きだ。作っている間、どうすれば味が染み渡るか、色艶よく仕上がるか手順を考えることに専念できて余計なことを考えずにすむし、結果美味しく食べられるのでいいことずくめだ。皿洗いも調理のひとつなので苦にならない。食器自体はそう多くないが、気に入ったものだけをそろえているのでどれも大切にしている。
なかでも、波佐見焼の皿や茶碗を降谷は気に入って使っていた。青い模様がどことなくポップだし、なにより頑丈で毎日しつこく使っても欠けない。ごはんを盛り付けたときに美味しそうに見えるのが一番だから、茶碗はシンプルでいい。
赤井が訪ねてきたらまずどんな言葉を交わそう。どこにランチを食べに行き、映画はなにを観ようか。赤井のほうで完璧なプランがあるのかもしれないが、もしかしたら行き当たりばったりという可能性も大ありだ。ライの頃はいつもピリピリしていて容易に話しかけることができなかったが、彼が請け負った任務は完璧に遂行されていた。あの頃から考えるとずいぶんいろんなことがあり、遠回りしてきたもののいまようやく互いに過去を認め、受け入れ、歩み寄るところまで来た。
だったら、今日ぐらいはノープランでもいい。適当にぶらぶらし、よさそうな店に入っておすすめのメニューを食べ、合間にスマホでいま上映中の映画を探すのでもいいし、なんだったら映画館の前まで行って悩んでもいい。
それぐらいの余裕がいまの自分たちには許されるはずだ。残された人生をどう生きるかと考えたとき、たったいまを楽しむのか明日を憂うのかひとそれぞれだとは思うけれど、降谷としてはいま一瞬を前向きに享受したかった。もしかしたらそこには楽しさだけではなく、悲しみやつらさ、苦しみもあるかもしれない。だけどすべて新鮮な感情で、鈍く過ごしてしまえばどれも手のひらからこぼれ落ちるものばかりだ。
生きていれば別れもあるし出会いもある。そのことは痛い程に知っている。取り返しがつかないことがあることも当然。立ち止まって闇雲に手探りする日々もあった。
だからこそいま、あの赤井みずから誘いにやってくるという晴れた五月の朝、丁寧に食器を洗って洗面所に戻り、きちんと歯磨きをして身繕いを調える。
一歩踏み出してもいいと思える朝だ。
髪が伸びてきたなと鏡の前で考え、まだルームウェアだったので手早く毛先をそろえてしまうことにした。美容院でもぼやかれる面倒な毛質なので、自分で簡単な手入れはできるようにしている。ピンでサイドの髪を留め、額にかかる髪を梳きばさみで切っていく。ぱらぱらと洗面台に落ちた髪をティッシュで拭い集めた後ざっと水を流せばできあがりだ。
それから、先週赤井に譲ってもらったシャツを羽織る。ネルシャツなのでちょっと暑いかもしれないが、袖をまくれば問題ないだろう。シャツのボタンも上まで留めずひとつふたつ外しておく。
下にTシャツかランニングシャツを着たほうがいいだろうかと迷ったが、せっかくのネルシャツだ。じかに肌に触れ合わせたい。赤井からもらった後一度洗濯しているので、前の持ち主の匂いは綺麗に消えた。
でも、とシャツを鼻先に持っていって君と嗅ぐと、馴染みのある煙草の匂いがする――いや、気のせいだ。赤井がこのシャツを羽織っていたのはほんの短時間だ。彼の体香が移り、柔軟剤も使った洗濯後にまだ残っているとは思えない。
――意識しすぎだな。
自分にため息をつき、あえてシャツの襟をきっちり引っ張って開く。時間をかけてくたくたになったシャツは気持ちいい。再度よくよく袖のあたりの匂いを嗅ぐと、いつもの洗剤の清潔な香りだ。
なのに――それでも、赤井が羽織ったという事実は消えなくて、ふと気をゆるめるとまるで彼に背後からふわりと抱き締められているような錯覚に陥るぐらいだ。袖の長さが赤井の腕だと思うとたちまち耳たぶのあたりが熱くなる。
のぼせた考えを打ち消したくて、もう一度水を強く顔に打ち付ける。
それから部屋中を掃除し、まだ体力も時間も余っていたので風呂場を熱心に洗い、少し疲れたところで冷えた水を飲み、ソファにくたんと身体を預けた。
「なにをやってるんだ僕は」
いい大人がウィークエンドの誘いを前にここまで浮き立っているなんてお笑いぐさだ。
ミネラルウォーターのペットボトルを掴んだまま軽く瞼を閉じる。うとうとしたのはつかの間だと思う。夢を見る暇もなく、ぼんやりした意識の中でチャイムの音を聞いた。
「……赤井?」
ぼうっとした状態でインターフォンに出ると、やっぱり彼だ。壁に掛かった時計を見れば十二時ちょうど。オートロックを開けてやり、そのまま玄関で待っているとまたチャイムが鳴る。扉を開けた先に、少しの間だけシャツの持ち主だった男が立っていた。
「……おはようございます、赤井」
「もう午後だ降谷君。昼寝してたのか?」
いつもどおり黒ずくめの格好をした赤井がちょっと可笑しそうに笑い、降谷の頭のてっぺんから足の爪先まですうっと視線を下ろす。その視線がシャツの下まで透かすような一瞬の鋭さがあったことに内心たじろぐが、顔には出さずにいられた。
「すみません、出かけましょうか」
「あ、ああ、そうだな。そのペットボトルは持っていくのか」
「置いてきます。ちょっと待っててください」
玄関脇の棚にボトルを置き、ソファに投げ出していたボディバッグとスマホを手にする。最近はほとんど電子マネーかクレカ決済にしているので身軽なものだ。
「お待たせしました。行きましょう」
赤井と連れだって外に出ると、初夏の爽やかな風が吹いている。
「赤井、僕お腹が減ってるんですが」
「朝飯は食べなかったのか」
「食べましたけど、部屋中掃除していたので」
歩いているとぐううと鳴る腹を押さえれば、隣の頭半分高い赤井はおもしろそうに顔をのぞき込んでくる。
「君は思いのほか大食漢だよな。なにが食べたい?」
「なんでも。朝が洋食だったからフレンチかチャイニーズか……牛丼大盛りとかラーメンと餃子の定食でもいいんですが」
「賛成だと言いたいところだが、せっかく君を連れ出せたんだ。駅前に美味しそうなイタリアンレストランがあった。テラス席で煙草も吸えそうだからそこにしないか」
「いいですよ」
最寄り駅の周辺はつぶさにチェックしているのだが、赤井の言うイタリアンには寄ったことがない。店の営業時間と自分の帰宅時間が合わないのだ。
その店は大通りから一本横に入ったところにあり、緑のパラソルが目印になっていた。カジュアルなTシャツに黒いエプロンをつけた店員にテラス席が喫煙オーケーだということを確認し、ふたりで片隅を陣取った。
メニューを開き、じっくり読む。今日のパスタは茄子とトマトだとか。軽く済ませるならパスタとドリンクのセットだが、前菜とスープ、パスタと肉のコースもある。
「決まったか?」
グラスに入った水を飲む赤井に問われ即座に頷いた。
「決まりました。肉と魚にします」
「俺もそれにしよう」
朝食べたことなんかなかったかのような食欲がこみ上げてくる。オーダーを取りに来た店員に注文し、先に軽めの白ワインを持ってきてもらうことにした。この後映画ですよねと一応釘を刺したものの、「一杯ぐらいならいいだろう」と言われ、まあいいかと降谷も承諾した。
湿度が低く、あたりのものすべてをまぶしく輝かせるこの季節は一年のうちでもっとも過ごしやすい。日頃の真面目すぎる勤務態度から考えたら、週末の昼日中のワインも許されるはずだ。
「さっきの君はずいぶんと無防備だったな。いつもは見られない顔をしていた」
「……ちょっと寝ていたので」
寝起きのふぬけたところを見られたなと思うといまさらながらに恥ずかしい。けれど赤井はご機嫌な様子で、ワイングラスを軽く揺らしている。
「この間お邪魔したときも思ったが、綺麗好きだな、君は」
「自分だけの空間ですからね。居心地よくしたいじゃないですか。そういうあなたはいつもセーフハウスをぐしゃぐしゃにしていく筆頭でしたよね。何度言ってもピザやファストフードのゴミを片付けないし、シャワー後のタオルはソファに放り出されたまんま。靴を履いたままベッドに寝転がってたのは一度や二度じゃないんですよ」
「あの頃はひどい作戦続きばかりだったから。それにしてもよく覚えてるな」
苦笑いして、赤井は運ばれてきたワイングラスを触れ合わせてくる。
「乾杯」
「なにに?」
「天気のいい土曜、君と穏やかにランチを食べられることに」
確かにそのとおりだ。
腹を満たして瞬時のエネルギーに替える栄養補助食品やプロテインドリンクですませた日々のことを思うと、いまは天国にいるようなものだ。
前菜は鰯のマリネに、パプリカとズッキーニのカポナータ。
新鮮な鰯の軽い味を白ワインで堪能し、目にも鮮やかな野菜たちをつまむ。
合同調査の進捗を小声で話しつつ、カブのスープで身体の芯を温める。五月とはいえ、冷たいものばかり摂っていると身体によくない。こういうときスープはいい。カブもやわらかな舌触りで美味しい。
パスタは、赤井は豚肉と仔牛のナポリ風ラザニアにゆで卵とミートボールというボリュームのある一品。降谷はペスカトーラにムール貝やあさり、チェリートマトをあえたものにした。これもとびきり美味しくて、あっという間に平らげてしまう。メインがあるためか、パスタの量は控えめだ。
「メインはおそろいだな」
「ですね」
豚バラ肉のコンフィにひよこ豆を添えたものを目の前にし、いざナイフとフォークを手にする。健啖家なので、肉一切れ、ソースの一滴まで美味しくいただき、ふう、と満足したところでシトラスのソルベとコーヒーが運ばれてきた。
「完璧ですね。ランチにしては結構いい値段だけど、その分はありました」
「だな。君との初めてのデートだからいい記念になった」
ナプキンで口元を拭い、早々に煙草を咥える赤井に、「――は?」と首を傾げた。
「いま、なんて言いました?」
「デートだろ?」
「デート……なんですか、これ」
唖然としてしまった。
「少なくとも俺はそのつもりだったが、君は違うのか?」
腹が満たされた赤井の声はどことなく嬉しそうだ。
「いや、あの、普通に知人とのランチかと」
「いまさら知人という遠い関係でもないだろう。友人と言うにはさまざまなことを知りすぎている。だから、もう一段階進もうと思ったんだがだめだろうか」
赤井はしごく真面目で、「だめです」とでも言おうものならあからさまに眉を曇らせてしまいそうだ。
デート。
「一応、僕らは男同士ですよね」
「ああ、そうだ」
なにか問題でも? と言いたげな赤井に次の言葉が出てこない。昨今セクシュアリティについて問うことも特別ないが、いざ自分と赤井となるとやはり戸惑う。そもそも赤井が同性愛者だとかバイだとか突っ込んだ話をしたことはなかった。いままでそういう状況ではなかった、とというのが正しい。ただ、彼の場合、性別問わず好きになった相手は深く取り込むのだろうという直感はあった。間違いなくモテるだろうし、相手には困らないはずだ。だったら、『もう一段階』という言葉の意味はなんなのか。
あらためて考えてみると、じわじわと指先が熱くなる。ワインはそんなに強いものじゃないし、たったグラス一杯だ。意味なんかあるようでいてない、きっと。
「そのシャツ、やはり降谷君に似合っているよ。君に着てもらえてよかった」
「そ、うですか。あの赤井、デートというのは単なるリップサービスですよね」
「どうしてそんなことをわざわざ言う必要があるんだ?」
「だってあなた、アメリカ暮らしだし。それぐらい軽く誰にでも言いそうじゃないですか。さらっと土曜にランチを食べるついでに映画でも観てぶらぶらして」
「買い物もするか。この間はフリーマーケットだったが、新しい夏物のシャツを探すのも楽しそうだ。降谷君がポアロにいた頃の服装、俺は好きだったよ。カラフルで、カジュアルで、やさしい雰囲気だった」
「あれは――あれは一応潜入捜査の一環で、周囲に溶け込むような服を部下に調達してもらっていただけで、自分の好みとかそういうのはまったく関係なくて」
「じゃあ、今日は君の好みを探そう。ほんとうはどんな色のどんな素材が好きなのか、ひとつずつ店をのぞいていこう」
君の好みを、という言葉がやけに鮮やかに胸に残る。
自分の好きなものを突き詰めたことなんてあっただろうか。
「……赤井、暇なんですか」
精一杯憎まれ口を叩いたつもりだったのに、赤井は軽く片目をつむって、「君相手にはな」と言う。気障だなと思うが、想像していたより悪い気分じゃない。
ちょっとのアルコールのせいもあって胸が弾み、気分は高揚している。このまま会計を終えて都心に出て、赤井とふたりで行く先を決めずにぶらつくのもいいんじゃないだろうか。
――せっかくの休日なんだし。
和解前にはまったく浮かばなかった考えだ。休日なんてなかったし、あったとすれば気絶するように寝るためだけの日だった。それか交戦で受けた傷を癒やすためのどうしても必要な治療休暇とか。ベッドの上で書類をめくり、スマホやタブレットPCで最新状況をチェックしていたあの頃に比べると、今日この日はなんだか嘘みたいでできすぎた夢のようだ。緑のパラソルの陰から差し込む光がテーブルをふわりと照らし、普段は鋭く見える赤井の頬もやわらかに縁取っているのを見ると、言い知れぬ感情が胸の中で渦巻く。
これが、いま自分が置かれている現実なのだ。硝煙と血の匂いと縁が切れたと言い切るにはまだ早いだろうが、それでもずいぶん遠くまで来た。
なにか言いたい。なにか水を差すようなことを言いたい。冷静になれと自分をどやしたい。
だが、降谷の口をついて出たのはまるで正反対の言葉だった。
「……まあ、いいですよ。今日は僕も時間があるので。夏服、ちょうど買おうと思っていたところですしね」
「そうか、よかった」
目を細める赤井につい見入ってしまった。ひどく嬉しそうなその表情が胸を揺らす。
いつもそういう顔をしていればいいのに。
――ライの頃からこんな顔をしていたらもっと近づきやすかったのに。
互いの身元を隠して潜入していたのだから、そんなことをいまさら考えても仕方がないが。
コーヒーで気を引き締めようとしたが、昼間のアルコールは思いのほか効いたようだ。悪いほうではない。あの赤井秀一とこれからデートまがいの行為をする流れになって、自分としたことが浮かれている。浮き足立っている。
「じゃ、そろそろ行きましょうか」
声も上擦っている。ごほんと咳払いしてスマホカバーの中に入っているクレジットカードを取り出すと、先に赤井が伝票を押さえた。
「デートに誘ったのは俺だ」
「でも、ランチにしてはわりといい値段でしたし」
「先週は君の手料理をごちそうになっただろう? その礼だ」
そう言われるとそれ以上拒むのも大人げない気がして、「ありがたくいただきます」と頭を下げた。
「美味しかったです。ごちそうさまでした」
「うん、俺もこんなにちゃんと味のする食事は久しぶりだ」
日頃から不摂生が当たり前になっている男の台詞らしい。
「あなた、もっと栄養を考えて食べたほうがいいですよ。その場しのぎのカロリー摂取だけで生き延びるなんてつまらない。そりゃそういう危機的状況もありますが、いまみたいな場合だったら時間をかけて食材を一から選んで、味付けもいっぺんにやるんじゃなく少しずつ自分好みに工夫するとか。旬の野菜を食べるのだって美味しいじゃないですか」
「君は食べることに熱心だな。執着と言ってもいいぐらいだ」
「食は快楽のひとつなんですから当然です。口に入れて喉を通って胃に収まって、初めて満足するんです。どうせ生きてれば一日のうちなんかしら食べるんですから、楽しいほうがいいでしょう」
「快楽のひとつか。大胆なことを言う。――だとしたら君の口内はかなりの性感帯なのかもしれない」
思いがけない言葉に締めの水を飲んでいた降谷はもろに咳き込んだ。
「な……っ……あなたはなにを」
「だってそういうことだろう? さまざまな食材を君はその口でこころゆくまで味わって愉しむ、ということを言ったんじゃないのか」
「そんな言い方はしてません!」
途端に熱くなる頬を押さえ、席を立った。これ以上話しているとよからぬ方向に飛び火しそうだ。
「さっさとシャツ見に行きますよ」
「そう怒らなくてもいいだろうに」
くっくっと肩を揺すって笑う赤井が無性に腹立たしいが、そもそもセクシャルな話題の種をまいたのは自分だ。言い方が悪かったなと恥じる思いと、あえてそういう方向にねじ曲げるなよという怒りがない交ぜになって店を出る降谷の足を速くさせる。
店を出た後はタクシーを捕まえ、東都の中心に向かうことにした。降谷としては電車でもいいと言ったのだが、赤井に「休日の混雑した電車は苦手なんだ」と言われて仕方ないかと譲歩した。
米花百貨店ならいい品がそろっている。そこに車をつけてもらい、ふたりでメンズフロアへと向かった。
初夏を迎えた百貨店内は華やかなもので、男性向けのファッションも色とりどりだ。
「トラッドがいいか、クラシカルがいいか……降谷君はどういうスタイルが好きなんだ?」
「見ての通り、僕は最近古着に目覚めたような無粋な男ですよ。着られればなんでもいいです。あ、ひとつだけ条件があります」
「なんだ」
「頑丈なのがいいです。何度洗ってもへこたれないやつ。バーボンだった頃はブランドものの煌びやかな服も着ましたけどね、ああいうのは洗濯するなんて条件が入っていない状態でさまざまな装飾が施されているので、一回着たら終わりなんですよ」
「そういう服はどうしてたんだ」
「任務が終われば捨ててました。合理的ですが、どう考えてももったいない。まあ、たいていはベルモットが用意したものばかりですから、ここぞとばかりにありとあらゆる高価な素材を着て参考にはなりましたけど。あれですね、これからの季節によく出るリネン素材なんかは一級品とそうでないものの差がくっきり出ますね。安物は肌に痛い」
「そういうところまで敏感か」
「だから、そういうんじゃなくて」
ぶつくさ言いながらショップをのぞいて歩き回り、ふと、明るい黄色のシャツを飾っている店先で足を止めた。
夏のきらきらした朝陽をぎゅっと閉じ込めたような、濁りのない綺麗なイエローだ。形はシンプルなボタンダウンの七分袖。襟の先まできちんと律儀な縫い目が美しい。
「へえ……」
これいいな、と呟きながらマネキンに触れてみる。触ってみた感じでは、リネンとコットンのミックスだろうか。さらさらしていてとても手触りがいい。
「その色はいいな。君の素敵な肌をもっと生かしてくれそうだ。着てみてはどうだ?」
「ええ、でも」
胸元のポケットに収まっている値札を見て目を瞠った。欲しいと思う価格よりゼロがひとつ多い。いい生地を使っているなら相応な価格だと思うのだが、自分で着るには気が引ける。
「だめです。高い」
率直に言ったのに赤井はまったく聞いておらず、近づいてきた店員に「このシャツの在庫はあるか」と聞いている。
「ございます。こちらへどうぞ」
「ほら降谷君、行った行った。試着してみないとよさがわからないだろう」
「だから、よさがわかるわからない以前に高いって言ってるのに」
ぐいぐいと背中を押されて、強引にも試着室へ押し込まれてしまう。笑顔の店員が新しいシャツを手渡してくれたので、降谷も諦め、とりあえず袖を通すことにした。着るだけ着てみれば赤井も満足するだろう。
「人形じゃないのに」
ぼやきながら個室でネルシャツを脱ぎ、黄色のシャツを羽織る。
それなのに、ふわりとやさしくも爽やかな生地が背中を撫でた瞬間、わかった。
値段以上の価値があるシャツだ。
もう一度、胸ポケットの値札を見る。やっぱり高い。私生活などあってないに等しい仕事だが、こんなにも綺麗なシャツがクローゼットの中にあればワーカホリックな自分でもたまには休もうと思うんじゃないだろうか。
このシャツを着てどこかに出かけてみたいとか、時間に余裕を持ってみたいとか、日々の生活にいまよりは意識を傾けられる気がする。たとえば日曜の午後、このシャツを着て公園を散歩するのでもいいし、図書館にふらりと寄ってもいい。その帰りにスーパーマーケットで食材をじっくり吟味するのも楽しそうだし、せっかくだから一日着込んだシャツを丁寧に手洗いしてみるのもいい。洗濯表示のタグを見ると、案の定手洗いマークが記されていた。高級なシャツはクリーニング店に出したほうが安心ではあるものの、元を正せば麻と綿だ。この手でくたくたした生地に育ててみたい。先ほどまで着ていたネルシャツのように。
いまよりもっと肌にしっくり馴染んでくれそうな素材だ。
普段着にするには高価だが、いままでの功績を考えたらこういう贅沢もいいだろう。
――買おう。
なにより肌触りがいい。色も最高だ。赤井が指摘した通り、褐色の肌を引き立ててくれる。
「……あいつ、なんで着る前から似合うってわかったんだ?」
首を傾げながらボタンをはめていき、袖の長さにも満足していたところで外から扉をノックされた。
「降谷君? どうだ」
「いま出ます」
内側から試着室の扉を開ける。すぐ外に赤井が立っていて、黄色のシャツを着た降谷を見るなりわかりやすいほどに相好を崩す。
なんだか、今日はくだけた赤井ばかり見ている気がする。調子が狂うなと思うものの、「よく似合うじゃないか」と弾んだ声に、「ですよね」と降谷も反射的に返していた。
「ボディが着ていたときもいいなと思ったけど肌に触れた感触が最高なんですよ。これ、買います」
「それがいい。君の整った顔をよく引き立ててる。色も形も、降谷君のためだけに作られたようなものだな。既製品でこれだけ似合うんだから、今度オーダーメイドをしてみるというのはどうだろう」
「着ていく場所がないですよ」
「俺と出かければいいだろう?」
ああ言えばこう言うの典型的な会話に頭が痛くなってくる。
「……とにかく、このシャツは買います。着替えてきます」
「わかった、待ってる」
ここで無理強いしてもよくないと赤井は悟ったのだろう。
両手を挙げてホールドアップするとそのまま後じさったので、バタンと音を立てて試着室の扉を閉めた。
このシャツは日々よく働いている自分への褒美だ。それなりに根は張るが、クローゼットに飾っておくのももったいない。買ったらどんどん着て出かけよう。どんなふうに肌に馴染むのか、そして今シーズン着倒したらこの鮮やかさがどんなふうに褪せるのか、それも考えるとまた楽しい。普段は白いワイシャツかルームウェア、丈夫なのが優先のトレーニングウェアばかりなので、服を馴染ませたいという発想が自分にとっても新鮮で楽しい。
元のネルシャツに着替えて外に出れば、笑顔の赤井と店員が待っていた。
「買います、これ」
「だな」
さらりと言って赤井がスラックスの尻ポケットからカードケースを取り出し、クレジットカードを店員に渡している。
「一括で」
「かしこまりました」
「ちょ、ちょっと、待ってくださいよ、それ僕が買うんですってば」
「ああ、俺からのプレゼントだ」
「なんで。どうして。僕、今日が誕生日とかじゃないですよ? 記念日でもないし」
「無事に組織を潰したあと、初めて一緒に出かけた記念だ。記憶に残るようなものを君に贈りたい」
「そう言われても――困ります。安いものじゃないんだし。ランチだってあなたの奢りだったじゃないですか」
「だから、今日はデートだ」
かすかに笑う赤井の嬉しそうな顔を見ると、それ以上反論できなくなってしまう。
綺麗に包まれたシャツを入れたショッパーを受け取り、「……ありがとうございます」とぼそぼそ言った。
「古着のシャツに加えてこれまでいただいたら、さすがに申し訳ないです。なにかお礼をさせてください」
「コーヒーでいい」
「そんなもんでいいんですか? 釣り合いが取れてませんよね。厳選した最高級の豆を挽くところから始めないと到底追いつかない気がするんですが」
「そこらのカフェで構わない」
のんびり言われて脱力してしまった。
「赤井はなにか欲しい服はないんですか。一年中真っ黒ですけど、たまには色があるものを着てもいいじゃないですか」
「組み合わせを考えるのが面倒なんだ。黒同士ならどう組み合わせても外れがないだろう」
「つまらないですよ、そういうの。僕に黄色のシャツを買ってくれたんだから、あなただってなにか挑戦しないと。あ、わかりました。こうしましょう、僕があなたに似合う一着を買います」
「降谷君が俺に?」
不思議そうな顔の赤井に、降谷は得意げに頷く。
「これなら赤井の好きなフィフィティ・フィフィティでしょう? 奢られっぱなしは性に合わない。僕に選ばせてください。あなたをもっと生かす色があるはずです」
堂々と言い切ると、赤井は可笑しそうに肩を竦めている。
「では、その特別な一着を探してもらおうか」
「よし、このフロアを制覇したら他のデパートにも行ってみましょう。テーラーに行ってもいいんだし」
ネルシャツの袖をまくり上げ、赤井と肩を並べて意気揚々と歩き出す。
米花百貨店はメンズフロアがふたつあり、いまいるのはカジュアルなブランドが多く、上のフロアはシックなブランドが集まっている。赤井ならかちりとした端整なシャツが似合うだろう。もしくは、いっそ派手な柄物とか。意外にもカラフルなアロハシャツなんかしっくりはまるかもしれない。
頭の中であれこれ当てはめてみると、悔しいぐらいなんでも着こなす男に思えてきた。そもそも、素材が優れているのだ。漆黒の髪に深みのあるグリーンの瞳、男らしく鋭く削げた頬に綺麗に通った鼻筋。くちびるは意外にもセクシャルで、先ほどの食事でもよく咀嚼しているその口元に何度か見とれたことを思い出す。頑丈な顎でしっかり食材を噛み砕くのを目の当たりにして、自分としたことがいつになくそわそわした。
無愛想で、不器用で、報連相がめちゃくちゃな男だが、ここぞというときには鮮やかな一手を決める。それは昔からよく知っているし、緻密さと大胆さを兼ね備えた男だからこそあの組織を追い詰められたのだと降谷もいまは認めるところだ。
「変身、してみましょうか。思い切って真っ青とか鮮やかな緑とか」
「俺が? 似合わない気がするが」
「そんなの思い込みですよ。僕が買ってもらった黄色だってあなた、堂々と着こなせると思うし」
「いや、あの黄色は君だから似合うんだ」
やけにきっぱりとした声で赤井が断言する。
「降谷君の色香が滲む肌色にあの黄色はよく似合っていた。俺みたいな無粋な男は到底着こなせないさ」
「色香って。なんかそこまで褒められると怖いんですけど」
「ほんとうのことを言ったまでだが」
涼しい横顔をちらりと睨み、降谷は耳たぶを熱くする。
――そんな真顔で言うな。本気にするだろ。
赤井の口から色香が滲むだなんて言葉が出ると調子が狂う。ずっと愛想の欠片もない男だと罵り、憎んできたのだが、これが素顔なのだろうか。組織壊滅という重責を下ろした赤井の本音は、こうなのだろうか。
よくよく見ると、以前よりも目の下の隈が薄くなっている気がする。削げた頬は相変わらずだが、血色も悪くはない。先ほど食事をしたばかりなのだからとも思うのだが、赤井を覆う空気は意外にもやわらかだ。油断、という言葉はこの男の辞書には生涯ないだろうと思うものの、隣を歩いているいま、彼の足取りは軽く、全体的に気楽そうだ。
そのことに気づけたことが驚きでもあるし、同時に高揚してしまう。
いままでなにを見ていたんだろう。赤井秀一という男のある一面だけをひたすら見続け、追い続けてきたけれど、互いのわだかまりがようやく薄れたとなったいま、彼が持つ雄々しさや羨ましいほどのふてぶてしさが胸に鮮やかに食い込んでくる。妬ましくなるぐらいの余裕はただ一時のチャンスを待ち望む執念深い正確無比なスナイパーだからこそだろう。
とくに、その横顔がいい。ニット帽からうねって落ちる黒髪、形のいい鼻筋から続くくちびるは思いがけずも色っぽいし、顎のラインもしっかりしていて男らしい。
つかの間言葉もなく見とれ、「降谷君」と肩を掴まれ引き止められたときには思わずたたらを踏んだ。
「え、――え?」
「あそこの紙袋を見てくれ」
赤井が声を落とす。その低い声音に異変を感じ取って視線を移すと、エレベーターの扉脇に紙袋が置かれていた。この米花百貨店のロゴが入った紙袋だ。
「忘れ物だと思うか?」
「……いえ。どうでしょうね。そういえばこの百貨店って以前にも騒ぎがあった気が」
かつての自分は赤井に変装し、その赤井は沖矢昴としてここに来た因縁のある場所だ。
ぼやきながら降谷は何食わぬ顔で紙袋に近づき、雑にガムテープで止めてある袋口の隙間から中をのぞき込み、ぐっと顎を引き締めた。
「――赤井、僕に協力してくれますか」
「もちろんだ」
即座に返ってくる答えがなんとも頼もしい。彼の理解力の高さは昔から優れていたが、組織壊滅前後あたりから意思の疎通がよりスムーズになった。
「中身はなんだ」
「時限爆弾。五分切っているからここで解除しないと」
「君のところの爆発物処理班を呼ぶ時間は?」
「ありませんね」
「だが道具は、それに防護服もない」
「いつも持ち歩いてる工具があるんですよ。大丈夫、時間内に決着をつけます。僕の腕前はあなたがよく知っているでしょう?」
控えめに言って、降谷は紙袋の前に慎重に跪く。
「赤井にお願いがあります。すぐに店員にこのことを知らせて客を避難させてください」
「その間に解除できるか」
「絶対に」
「わかった」
短いやり取りを交わし、赤井は顔色ひとつ変えずに足早に歩き去り、近くの男性店員を捕まえ、耳打ちしている。店員はさっと顔を青ざめ駆けていった。
それを横目に降谷は斜めがけにしているカーキのボディバッグから使い慣れたツールセットを取り出し、床に置く。ドライバーにニッパーにレンチ。簡単な道具ではあるものの、どんな場面でも活躍してくれる頼もしい存在で、片時も手放したことがない。安室透として喫茶ポアロにいた頃とてひそかに持っていた相棒だ。
ふと気づいて、買ってもらったばかりのシャツが入っているショッパーはひとまず遠ざけておくことにした。
赤井からの初めてのプレゼントだ。
無事にシャツを着るためにも、まずはこの目の前の厄介な代物を片付けなければ。
刻々と時を切っていく起爆装置を見つめる間にも、静かな興奮が胸の裡に燃え盛るのを感じていた。赤と青、灰色の配線も混ざっていた。もちろん雷管も。いまどきめったにお目にかかれないほどのシンプルな構造に見えるが、どこにトラップが待っているかわからない。
ここでむざむざと血を流すわけにはいかなかった。ようやく訪れた平穏な一日を過ごした最後に無駄死にする運命を自分は望んでいない。
油断だけはするなと肝に銘じて降谷はドライバーを掴んだ。
頭上では非常アナウンスが始まっている。
細工は流々、仕上げは御覧じろとはよく言ったものだ。
爆発一分前の解除に成功した降谷はそばに付き添っていた赤井とほっと顔を見合わせ、すぐに部下の風見に連絡を入れて事の次第を伝えた。
「ちゃちな装置だったが、爆発していればそれなりの殺傷能力はあったはずだ。解除はできたが、至急爆発物処理班と鑑識を回してくれ。あとのことは風見に任せたい。頼めるか」
『お任せください。休日返上でアクシデントに巻き込まれるとは降谷さんらしいですね。ご無事でなによりです』
安堵したため息を漏らす部下に苦笑し、降谷はスマホの通話を切ると赤井に向き直る。彼の手にはあのシャツが入ったショッパーが提げられていた。
「俺たちの行く先にはどうも、まだトラブルがつきもののようだな」
「ですね。ここは所轄に任せて、マスコミが駆けつける前に逃げましょう」
「それがいい。騒ぎはごめんだ」
デパート内は非常事態に備えて大混乱していたが、「不審物は無事取り除かれました」というアナウンスに一斉に拍手が沸き起こっていた。その中をくぐり抜け、降谷は赤井と肩を並べて米花百貨店を出る。
外に出ると、朝方の晴れが嘘のように重たい雲が立ち込め、いまにも一雨来そうだ。傘も持っていないしすぐに帰ったほうがいいだろうかと考えていると、赤井に袖を引っ張られた。
「ここからなら俺の家に近い。雨宿りしていかないか」
「あなたの家に? ……でも、そうですね。傘をわざわざ買うのももったいないし、お邪魔させていただいてもいいですか」
雨宿りは単なる口実で、赤井がどんな部屋に住んでいるのか興味があった。一時はアメリカと日本を行ったり来たりのスパンが短かったのでFBIが用意したホテルに仮住まいしていたが、合同捜査が本格化したいま、ひとまず隣の杯戸町に根城を構えたようだ。
赤井の言うとおり、米花百貨店からタクシーで少し走ったところにそのマンションはあった。最近できたばかりのタワーマンションで、エントランスからしてセキュリティは万全だ。
「遠慮なく入ってくれ。ビールでもどうだ?」
「いいですね」
一仕事終えたばかりなので、息抜きがしたい。異論はないと言うと赤井が「ソファに座っていてくれ」と言う。
間取りは3LDKらしい。ひとり暮らしには広い部屋だ。いまいるキッチン続きのリビングに、たぶん向こうはベッドルーム。そしてもうひとつは武器保管庫だろう、あまりさらりと認めたくはないが、彼の立場を考えるとそれしかない。残るひとつはゲストルームか。
オフホワイトのソファに腰を落ち着け、まだ新品のグレイのカーテンを物珍しそうに見る。極端に物が少ない部屋で、まるでホテルのようだ。
テレビにソファ、ローテーブルしかない。キッチンには冷蔵庫だけなんじゃないだろうか。
「ここ、最近引っ越してきたんですよね」
「ああ、一か月ほど前に」
「なんだかあなたらしい部屋だ。絵の一枚もない」
「うん? まあ、たいした教養もないしな」
さらりと言うが、それはあくまでも表向きな言葉だと思う。沖矢昴として工藤邸に居候していた頃はインテリジェンスに満ちた生活を楽しんでいた。もともと工藤邸が贅沢な造りで、沖矢に扮した赤井も丁寧に紅茶を淹れ、よく推理小説を読んでいたものだ。
一時だけ触れ合った沖矢のことを思うと懐かしいような、それでいて少し腹立たしいような気がする。赤井の死を受け入れずに行方を追い続け、その先で出会った沖矢だ。自分の目は間違っていなかったという勝利の喜びは当然あったが、周囲の――それこそ自身を殺したままでFBIの仲間にすら真実を隠して潜入を続けていた彼に畏怖を感じたのもまたほんとうのことだ。
いずれ、ここでの暮らしに慣れたら、壁に絵の一枚でも飾るぐらいのセンスがある男だが、自分と似たり寄ったりのワーカホリックなのでいったいどうなることか。絵はなくてもいいが、緑のひとつぐらいはあったほうがいいかもしれない。そう手をかけなくても頑丈に育つ観葉植物が部屋にあれば、それだけで空気が和む。
「降谷君、ほら」
冷蔵庫から取り出したばかりの冷えたバドワイザーを手渡されて、「ありがとうございます」と礼を言う。隣に赤井が腰掛け、タブを引き抜いた缶を軽くぶつけた。
「お疲れ様」
「お互いに」
軽めのビールを一気に半分ほど飲み干し、深く息を吐く。
「それにしてもあの百貨店、呪われてますよね。爆弾騒ぎも二度あったら三度目もありそうです」
「確かに。今日のはまあ模倣犯だろうが、後続を断つためにも徹底した捜査が必要だな」
「捕まえますよ、絶対に。時限爆弾自体あまり作り慣れてないタイプでしたし、犯人の痕跡はあちこちに残されていました。うちの鑑識は有能ですからすぐに挙げますよ」
「さすがは降谷君の国だ」
ちいさく笑って赤井もビールを呷る。
「この部屋、殺風景だから観葉植物でも買ったらどうですか」
「手入れが面倒だ」
「水やりするだけでぐんぐん育つ簡単なものもありますよ。ドラセナとかパキラとか。とくにパキラは成長が早いから毎年鉢替えが楽しいですよ」
「鉢替えか。君が手伝ってくれるならいいが」
「それぐらいお手のものです。ちょうどいまぐらいの季節に一回り大きな鉢に植え替えるだけでおもしろいぐらいに元気に伸びてくれるのって、見ていて楽しいんですよ。新芽も可愛いですしね」
「降谷君もなにか育ててるのか?」
「ん? んー、いまはちょっと。でもせっかく余裕ができたんですし、多肉植物とか育ててみたいですね。こう、彩りや形状のバランスを考えて鉢寄せとかしてみて……赤井、なに笑ってるんです」
見れば、くく、と赤井が肩を揺らして笑っていた。
「君が熱心なガーデナーだとは知らなかった」
「そこまでじゃないですよ。ただ毎日に緑があったらいいなというだけのことです」
「確かに。目も休まるし、ほっとする。植物は話しかけるとよく育つと言うが、降谷君は熱心に話しかけていそうだな」
「あなたと違って報連相のできる僕ですからね。一日の出来事はもちろん、おはようとおやすみとただいまは言いますよ。おかえりなさいと言ってくれないのは残念ですが」
突発的災難を無事回避できたことへの達成感が後押しし、降谷はあっという間にビールを二本飲み干す。赤井が三本目を持ってきてくれたのでありがたくいただき、すいすいと呑み続けていく。
「はは、僕喋りすぎですね。爆弾解除には慣れてるはずなのに、ほっとしてるのかも」
「それは当然だ。ああいうのは何度やっても慣れることはないだろう」
「……あなたは? ターゲットに銃口を向ける瞬間に慣れることはやっぱりないんですか」
「自信はあるが慣れることはないな。慢心は命取りだ」
「さすが、シルバーブレット」
微笑んでソファに深く背を預け、深く息を吐き出しながら瞼を閉じる。シャツの襟先に少し顎を埋めるようにすると、やさしいネルシャツが肌をくすぐる。
アルコールのせいもあるだろうが、張り詰めていた神経が解れて気分がいい。このまま他愛ない話をずっとしていたいぐらいだ。
「いい気分だ。やっぱりこのシャツ、気持ちいい……」
「眠いのか? だったらひと休みしていくか」
「いえ、そこまででは。ただ……なんていうか、気が抜けたというか……結構緊張してたんでしょうね。僕ともあろう者がまだまだだ」
「君は充分やったよ。俺でもあそこまで手際よく処理することは不可能だ。君のおかげで大勢の命を救ったんだ。もちろん俺もな。ありがとう降谷君」
「ふふ」
ふわりと赤井に髪を撫でられてひどく心地好い。大きな骨っぽい手がゆっくりと髪を梳き、時折くしゃくしゃとかき混ぜる。一流の狙撃手らしくよく手入れされた長い指が地肌をくすぐっていくと、満ち足りた息を漏らすほどに気持ちよかった。
「あなた、マッサージも上手そうですね」
「どうだろう、意識したことはないが。……ん、少し首筋が強張ってるな。肩を揉もうか」
「いいですか? じゃ、お願いしようかな」
酔った勢いで彼に背中を向け、ソファの縁にくたんと頭を預ける。自分でもだいぶ無防備になっているなと蕩けた意識で思う。
普段はビール三本ぐらいじゃ酔わないのだが、今日は昼にもアルコールを入れているし、その後はその後で一騒ぎあって、いろいろと振り回された。そもそも、赤井と一緒に過ごしているという事実がまだどこか信じられない。家にまで上がり込んで。
やさしい手がうなじにかかる髪をかき上げ、首筋を撫でてくる。固まっている筋をなだめるように肌を繰り返し撫でたあと、ゆっくりと肩全体を揉んできた。
「はぁ……」
首の付け根ががちがちに強張っている。そこに親指がぐうっと入るとあまりの気持ちよさに声が漏れる。
すると背後の赤井も深いため息をついた。
「そう悩ましい声を出してくれるな」
「え? だって気持ちよくて。あ、……うん、そこ、いい。はー……赤井、上手いですねぇ。スナイパーを辞めたらマッサージ師として高給取りになれそうですよ」
「君専用ならいくらでもやるが」
「僕、凝りがちなんですよね。風見にもたまに揉んでもらうんですが、ここまで気持ちいいのは初めてだな。あ。あ。いい。ん、ちょっと強い」
「風見君にもこんなふうに触れさせるのか」
「ん? んん、まあ、手が空いているときにちょこっと。あいつ、力任せに揉んでくるから結構痛いんですけど、その場しのぎにはなるんですよね……って、いった、痛いです赤井、指、食い込んでる」
ぐぐ、と強めに指が肩に食い込んで痛さと気持ちよさの狭間で降谷は呻き、身体を離そうとしたが、寸前で引き寄せられて背後から抱き締められた。
「あ、赤井?」
「……そう簡単に触れさせるな」
「風見のことですか」
「風見君もだが、俺にもだ」
「マッサージしてもらってるだけですよね」
「それ以上のやましさがあったら? 君は少し無防備すぎるぞ降谷君」
「え?」
唐突に首筋に熱いものが押し当てられて、思わず息を呑んだ。
「な、なに、赤井、なにして」
いま触れたのはもしかしてくちびるか。
がばっと跳ね起きようとしたのに、腰に回る手は強く、離れない。
「赤井……」
「煽る君が悪い」
「そんな、僕はなにも」
焦るあまり声が上擦る。それを追いかけるようにちゅ、ちゅ、と首筋にキスされて、うなじもやわらかに食まれた。赤井のくちびるが触れた場所からふわりと熱が広がり、身体中を覆い尽くしていく。
「ちょ、待って、赤井」
「待たないと言ったら? 君に好意を持っている男の家に上がってきてなにもなく帰れると思ったか」
「――え、あの、……好意……って……赤井が……僕に?」
「それ以外のなにがあるんだ。そもそも、今日君を誘ったのだってデートだと何度も言ったはずだぞ」
「それはそうですけど、いや、単なる冗談っていうか、口だけっていうか、いえ、……その、べつに嫌だと言ってるわけじゃなくて、僕も楽しかったし……だいたい、僕のほうがずっとしつこく赤井を追い続けていたわけで、いまこうなってるのがちょっと信じられないというか……」
そこで降谷は耳たぶまで熱くし、うつむいてシャツの両袖口に顔を埋める。深く息を吸い込むと清潔な洗剤に混じって一日を終えた自分の体香が立ち上る。
「これだって……まだあなたの匂いがうっすら残ってる気がして……」
「降谷君?」
「でもほんとうはもっとあなたの匂いがあったらいいなと思って……洗濯しちゃったからうちの柔軟剤の香りになってますけど……この格好だったらあなたの匂い、移るかな……」
「君という奴は……」
呆れたように深々とため息をついた赤井が、ふっとうなじにキスしたあと、いきなり強くそこを噛んできた。犬歯が深く突き刺さる感触にびりっとした甘やかな痛みと痺れが全身を駆け抜け、ろくに声が出ない。
「……ッ……あかい……!」
「俺をこれ以上焚き付けるな」
今度こそ飛び起きて振り返ると、思いきり不機嫌そうな赤井が目に映る。
「あともう少しで君を襲うところだったぞ。レイプは俺の趣味じゃない」
「え? え?」
「――もし、君がほんとうにその気だったら、今日買ったシャツを着てもう一度会ってくれ。そうしたら、そのときは遠慮なく君を抱く」
なにを言われているのかまったくわからないが、聞いておきたいことがひとつある。
「……赤井、僕が好きなんですか」
「そうじゃなかったらこうならない」
むっとした赤井に乱暴に右手を掴まれ、力ずくで股間にあてがわされてギョッとした。熱を持って硬く盛り上がる彼の充溢に、たちまち身体中が熱くなる。火傷したみたいに慌てて手を引っ込めたものの、一瞬のうちに赤井のその大きさや形を覚え込まされてしまったみたいで落ち着かない。
「か、帰ります。すみません、今日はもう帰ります」
「そうだな。そのほうがいい」
よろけながら立ち上がり、玄関に急ぐ降谷の手にショッパーが押し付けられた。
「次のときはこれを」
「着てこなかったら?」
「着てくるさ、君ならきっと」
自信ありげな声に苛立って振り返ると、いつの間にかすぐ後ろに立っていた赤井に顎を掴まれ壁に押し付けられた。
「あか、い……っ」
うなじに落とされたのとはまるで違う強いキスでくちびるを塞がれ、目を閉じるのも忘れた。
「ん、んっ」
必死に抗ったけれども大きなシルエットに飲み込まれて指一本動かない。派手に殴り合ったことだってあるのに、じかに抱き締められるとこんなにもウエイトが違うのか。いまは自分が酔っているから本気が出せないだけなのか、過去やり合ったときに赤井が絶妙に手加減したのかわからない。
「ん……っ……!」
くちびるを強く強く押し当てられて息を吸うこともままならず、はっと吐き出した瞬間にぬるりと熱い肉厚の舌がもぐり込んできてさらに目を瞠った。
反射的に舌を押し返そうとしたのに逆に強く吸い上げられて、頭がくらくらしてくる。
「……赤井……あ、かい……」
一瞬だけくちびるが離れて呻いたがすぐにまた塞がれて、濡れた舌をうずうずと擦り合わせられる。仕事仕事の毎日でこうした触れ合いには縁遠い。バーボン時代のハニートラップだっていよいよとなったときさらりと躱していた。冗談みたいなキスは何度かあったけれど、舌を絡め合う深いくちづけは正直なところ生まれて初めてだ。
そんなこと、百戦錬磨であろう赤井には絶対に気づかれたくない。しかし膝はがくがくしてしまい、いまにも崩れ落ちそうだ。にゅる、とすべり込んでくる濡れた舌がいいように口腔内を乱していき、歯列をなぞってから再び絡みついてくる。唾液をたっぷりと交わしたことで降谷は喉を鳴らし、温かなしずくを飲み込む。すると、「いい子だ」と赤井が低く呟いて喉仏を人差し指でくすぐり、ますます降谷の目を潤ませる。強引なのかやさしいのか、どっちなんだとなじりたくなってくる。
言いようのない熱が身体中を覆っていた。
欲情、しているのだろうか。経験足らずというよりもまるで未経験の自分にこのキスは酷すぎる。息を切らして赤井を見上げると、彼のほうもさすがに攻め込みすぎたかと反省しているのか、苦笑して軽く頬擦りしてきた。
「君のそういう顔が見られるとは思わなかったな。もう少し引き止めたいが、俺の理性が壊れそうだ。合意のないセックスは避けたいところだし君も嫌だろう。だから、次に会うとき」
このシャツを、と赤井はショッパーを握った手に手を重ねてきた。
熱に浮かされた降谷はその大きな手を見つめぼんやりする。
この手が、身体の隅々まで這う日が来るのだろうか。
「シャツを着てきてくれたら、俺はもう一度君を誘う。その気になれなかったら、このシャツは捨ててもいい」
「……赤井」
「次の日曜ということでどうだ? また旨い食事を一緒にして、今度こそ映画も観よう。願わくばトラブル抜きで。時間は今日と同じぐらいにしよう。君の家まで迎えに行こうか」
「あ、いえ、その、どこかで待ち合わせ……してもらったほうが」
一気に押し流されそうで、踏みとどまるのも精一杯だ。
寸前までこのシャツを着るかどうか激しく逡巡するだろうから、できるだけ猶予が欲しい。それよりもなによりも、流れに乗って次の約束をしている自分がまだ信じられない。
頷いた、ということは、もう半分黄色のシャツを着ることに同意しているんじゃないだろうか。
――このシャツを着たら僕は赤井に抱かれる。
どういう手順で? どういう場所で?
考えれば考えるほど混乱してきて、呻きながら床にうずくまりたいが、そんな無様な真似をするわけにもいかないから、なんとか彼の腕の中からじりじり抜け出して玄関へと歩を進めた。
ちょんと額でもつつかれたら脱兎のごとく逃げ出しそうな降谷に赤井は苦笑いし、「そんなに睨まないでくれ。これでも一応理性はフル稼働させてる」と言う。
どうだか。少しでも隙を見せたら食いついてきそうな狼に見える。
「またな、降谷君。連絡する」
その前にどうせ庁舎で顔を合わせるだろう。
そのとき自分はどういう顔をすればいいのか。庁舎内で赤井を見るたび黄色のシャツを思い出して次の日曜に思いを馳せて――その先のことまではいまは考えられないから、降谷はくるりときびすを返して扉を開けた。
背後で赤井が可笑しそうに笑っているのを感じながら。
胸の鼓動は、もう次の週末に向かって駆け出している。