「……っ……」
身体の深い場所で感じる違和感に、加納恭平は顔を顰める。スラックスの上からゆるく擦って、少しでも疼きをおさめたいのだが、いまは授業中だ。多くの男子生徒が小テストに励む中で、尻を弄るわけにもいかない。
生徒たちがちゃんとテストに取り組んでいるかどうか、机をひとつずつ見回っている間にも、疼きはどんどんひどくなっていく。
――鳴澤様の言いつけに従っただけなんだ。言うことを聞かないと、もっとひどい目に遭う。
私立の高校教師である加納よりもずっと年下の大学生、鳴澤邦彰の冷ややかな目を思い浮かべて、加納はうつむく。
二十歳になったばかりの鳴澤には不思議な威圧感があり、とてもじゃないが逆らえない。今日のこのお仕置きも『無理です』と何度か抵抗したのだが、『言うことを聞くのが奴隷の役目だろう』と低く魅力的な声で囁かれ、ついには屈してしまった。
加納は彼の奴隷だった。
サディスティックな性癖を持つ鳴澤と出会ったのは、東京の六本木にある、SMクラブ・ゼルダだ。
聖職にありながら、加納は誰かに虐げられたくてたまらなかった。肉体を曝かれ、淫らな妄想を嗤われ、罵られた最後に抱かれたいとずっと思ってきたが、仕事上、理想的な恋人を見つけるのは難しい。
セックスだけの関係を結ぶパートナーでもいいと一時は自棄になったが、やはり、容姿も話し方も考え方も好きな相手に虐げられたい。上っ面の快感はすぐに醒めるものだと考え、特殊な性癖を隠しつつ、いままで生きてきた。
そんな毎日が、クラブ・ゼルダの奴隷志願者に応募したことでがらりと変わった。ほんとうなら、優れた数々の言葉で奴隷をひどく泣かせて昂ぶらせる、クラブきっての人気プレイヤー、チカの奴隷になりたかったのだが、『僕を選べるような立場じゃありませんよ』と彼らしい優しい声音で諭された。
誰にも内緒の身体をゆだねるのが、名だたるプレイヤーの中でも最年少の鳴澤だと知ったとき、唖然とした。
一度も彼のショウは見ていない。どんなプレイをするのかも知らないのに、仄暗い彼の目を見たとき、身体の奥底がどうしようもなく熱くなった。
間違いなく、ひどく扱われるだろうという確信があった。
こんな関係で一目惚れなんて信じられないと自分でも思うのだが、鳴澤にしてみても、決まった奴隷を持つのは加納が初めてらしい。
端整な顔立ちをした鳴澤は細身でも鍛えた身体を誇り、ボタンダウンのシャツやチノクロスのパンツを身につけ、品よく見える。
だが、一度口を開くと、彼の中にある衝動が焔のように噴き出ることを、いまの加納は知っている。
――とにかく、椅子に座ろう。
額に滲み出る汗を手の甲で拭い、教壇に戻ってそっと椅子に腰を下ろした。
とたんに、違和感が凄まじい快感になって下肢をどろどろに覆い尽くし、思わず呻きそうになってしまう。
無意識に椅子に擦りつけた尻の中で、ローターがぐずぐずに火照る肉襞を単調に擦り上げている。もっと深いところまで抉ってほしくて、気が狂いそうだ。
本物の男を知らないくせに、ローターで苛め抜かれる快感は知っている自分が浅ましい。直接繋がることを好まない鳴澤に、こういう感じ方を教わったのだ。
『授業中、絶対に外さないこと。俺に会うまで自分でそこを触らないように』
今日の昼間、電話口で鳴澤に命じられ、トイレの個室でなんとかローターを挿れた。その最中も全部話せと命じられたので、なかなか開かない孔を自分で弄り、ローターを飲み込ませるのがどんなに苦しいか訴えた。そのあと、肉洞に馴染んだ玩具がぶるぶると動き出して加納を犯し始めると、どこまでも飢えるような快感が這い寄ってくることが怖くなり、やめたいと頼み込んだのだが、もちろんはねつけられた。
『生徒の前で喘いでもいいんですよ。あなたの淫らな本性がばれてもいいならね』
電話の向こうで鳴澤は笑っていたが、そんなことをしたら教壇を追われるに決まっている。
教師という仕事は好きだ。生徒たちになにかを教えるたび、自分も多くを学ぶこの仕事は天職だと思っている。だが、生徒の親や同僚の教師たちが多くいる中で、好きなように恋愛を楽しむことはまずできない。
常識というものにきつく縛られている生活をしているからか、プライベートではその反動が出やすく、ある意味常軌を逸した恋に惹かれてしまうのかもしれない。
――だけど、鳴澤様は俺のことを単なる奴隷のひとりだと思っているはずだ。恋でもなんでもない、仕事のうえでの肉体関係でしかない。俺自身、鳴澤様がほんとうに好きなのかどうかと聞かれたら困る。だって、彼のことはあまりよく知らない。これがチカ様だったら、もっとのめり込んでいたんだろうか。
疼いてたまらない下肢から意識をそらすためにどうでもいいことを考え、なんとか授業を終えた。
採点は自宅で行おうと考え、テスト用紙を鞄の中にしまい、「お先に失礼します」と居残る教員たちに丁寧に頭を下げて学校を出た。
鳴澤に電話したのは、学校の最寄り駅から電車に乗り、三駅過ぎたあたりだ。
「遅くなってすみません。さっき、学校を出ました」
『ほんとうに遅い』
ぶっきらぼうな声に身が竦む。こういう声音の鳴澤にはできるだけ穏便に接したほうがいい。機嫌を損ねると、なにを命じられるかわからない。
「お言いつけは守りました。……自分では、してません」
『ふぅん……どうだか。いま、電車の中ですか』
「はい」
『座ってるのか』
「はい」
『じゃ、あなたのチンポを、いますぐ写メで送ってください。どうせ勃起してるんでしょう?』
「……そ、んな」
『できない、と言ったら俺はあなたの面倒を金輪際見ませんよ』
背中を冷や汗が滑り落ちていく。
幾多の言葉でひとを甘く搦め捕っていくチカとはまた違い、鳴澤は露骨な言葉でこころの真ん中に踏み込んでくる。
どういう暮らしをしてきたら、彼みたいな性格になるのだろう。裕福な家に育ってきたらしいことは彼の身なりや仕草でわかるのだが。
『どうする?』
「……します、あなたの言うとおりにしますから、少しだけ待ってください」
彼に捨てられたら、どうにかなってしまう。
息が上がるのを必死に堪え、加納は人気の少ない車両を必死に探した。幸い、夕方のラッシュが始まる直前で、乗客はまばらだ。それでも無人の車両はない。仕方なく、端っこの三人席に座って慎重に身体の前をジャケットと鞄で隠し、そろそろとジッパーを下ろした。
硬く張り詰めたそこにジッパーが引っかかって、なかなか下りない。下着は先走りでじっとりと濡れている。全身が汗だくになるのを感じながら、ようやく性器の先をスラックスの前から露出させ、震える左手で携帯を操作した。
液晶画面の中に映る性器は完勃ちしていて斜めに反り返り、見るからに淫らな色に染まっている。
カシャリと響く音に自分がいちばん驚いてしまう。
誰にも見られていないだろうかと周りを見回した。正面のふたり連れの学生が不思議そうな顔をしている。彼らが着ている制服は、加納の勤める高校のすぐそばにある、べつの男子校のものだと気づいて慌ててうつむいた。
言いようのない興奮と不安で身体が燃え上がりそうだ。
――ここで、触りたい。鳴澤様になじられながら弄りたい。でも、そんなのは無理だ。電車の中なのに。前にも学生がいるのに。
勃起したペニスを元通りにしまうのは難しいので、ジャケットの裾でどうにか隠してから、メールを送信した。
すぐに鳴澤から電話がかかってきた。
『あなた、頭おかしいの?』
くくっと笑う声が胸を鋭く抉る。その冷たい声、言葉に芯から熱くさせられるのだとはまだ気づけない。
『電車の中で性器を出して、写メるなんてどうかしてるんじゃないの? 捕まってもおかしくないですよね』
「鳴澤様が命じたのではないですか」
『だからって、誰が見ているかわからないところで脱ぐなんてね……。あなた、ほんとうに教師なんですか? いやらしいなぁ……尻の中にローターを突っ込んだまま授業をしていたんでしょう。手で扱かなくても、何度かいったんじゃないの?』
「いってま、……いえ、……してないです、……そんなこと、してません。ほんとうです」
『そうですか。それじゃ、次の命令です』
悪辣な声に、待ってくださいと言いかけたときだった。
目の前にふと影が落ちる。はっとして顔を上げると、さっき正面に座っていた男子学生たちがにやにやしながら見下ろしている。
「ねえ、なにしてるんですか? もしかして電車の中でオナニー?」
好奇心剥き出しの声が、電話の向こうにも聞こえたらしい。
『――次の命令は、そこにいる彼らとすること。ただし、手や口でいかせるだけ。電話は切らずに、このまま続けてください。あなたがどんなふうに彼らを誘うか知りたいから。主人の命令に従っていますと、ちゃんと言うように』
「な……」
なにを言うのか。
汗が滲む手のひらから電話が滑り落ちそうだ。あまりにもひどい命令にくらくらしてくる。どうして、鳴澤以外の男に奉仕しなければいけないのか。
「ねえってば。隠しても無駄ですって。あんたが真っ赤な顔してジッパー下ろしてるとこ、全部見たし」
「どっかに勤めてるひとでしょ? いいのかなあ、公衆の面前でいかがわしいことしてさ」
「あ……あの……」
口ごもる加納に、男子学生たちはますます可笑しそうに覆い被さるようにしてくる。
「……エロいことしてんでしょ。ねえ、見せてよ」
くすくす笑う声に眩暈がしてくる。
これでもうなにもかも終わりだ。地味でも真面目に積み上げてきた教師人生も、仄かな期待を抱いていた未来も、すべて壊れる。
それもこれも、自分の中に根付く歪んだ性癖のせいだ。
――ここで彼らを振り切り、電車を下りてしまえばいい。他のことはあとで処理すればいい。いまからでも戻れる、常識の世界へ。
理性の囁く声に腰を浮かせたときだった。
『――あなたは俺だけの五番でしょう?』
鳴澤の囁きに、ああ、と泣き声のような吐息を漏らし、加納はシートに深く身体を預けた。
そうだ。そうだった。自分はどんなことを命じられても仕方がない奴隷なのだから、主人である彼の命令に逆らうことなんかできない。
慎ましく生きていくことなど、彼に従うと決めた時点で捨てた選択肢ではないか。これから先訪れる未来は、鳴澤と、彼に従うこの身体で作り上げていくのだ。
ごくりと息を呑み、加納は通話を繋げたままの携帯をポケットにするりと落とし、学生たちにすがるような目を向けた。
鳴澤よりさらに年下の男に恥ずかしい秘密を明かすなんて、正気の沙汰ではないと思うのに。頭の底が熱い。
彼らだけに見えるような角度でジャケットの裾をそっと開き、硬く、勃起した性器をのぞかせた。先端が淫らにとろりと濡れているのは、触らなくてもわかる。
学生たちが目を剥く。惑いの次に、荒々しい欲情が浮かぶのを加納は見た。
自分だけ迷うのが怖いなら、全員道連れにしてやる。
怖くなるほどの熱情に押されて、加納は震えるような声で呟いた。
「――次の駅で下りたら、……僕を、苛めてもらえませんか。ご主人様が、……そう希望しているので……」
喘ぎ混じりの鳴澤の声に、目の前にいる彼らは獰猛な視線を交わし、舌なめずりする。
「たまんねえな。こんな変態、ほんとうにいるんだ?」
「真面目そうな顔してるのに、スゲエよな。電車内でチンポ出して、見ず知らずの相手に苛めてもらいたいなんてマジ病気。……いいよ。可愛がってやるよ。下りなよ」
電車が駅のホームに入っていく。レールが軋む鋭い音に、こころがずたずたに引き裂かれていく。なにがどうなるのかまったく想像がつかないのに、加納はくちびるを噛み締めて前を必死に鞄で隠し、両腕を学生たちに掴まれて電車を下りた。