ZELDA Freak/No.5 ...01

 左から、一、二、三、四。
 目の前にずらりと並ぶ男たちを上目遣いに見て、加納恭平は再び手元に視線を落とした。
 ――落ち着かない。どうしたらいいんだろう。
 さっきからもう、十五分もこうしているだろうか。床から照りつけるまぶしいライトのせいで視界は白く輝き、非現実的な空間がさらに強調されて加納をいいように惑わせる。
 四角いプラスティックパネルを綺麗にはめ込んだステージは、ほかの床よりも一段高いところにあった。以前から、ここにあがるひとびとがすることを夢の中の出来事のように見てきたが、まさか、自分が同じ場所に立つ日が来るとは思わなかった。
「加納、恭平さん?」
 艶のある、やわらかな声が聞こえてきて、加納はハッと顔をあげた。プラスティックフロアが放つぎらぎらとした白い光さえも弾くプラチナシルバーの髪の男はにこやかに微笑み、ゆったりした仕草で革のパンツを穿いた長い足を組み替える。着ているシャツは、きっとシルクだ。とろりとした光沢が、なめらかな肌によく似合う。切れ長の威力のあるまなざしとは裏腹に、色気のあるふっくらとした下くちびるが動くことにしばし見とれ、加納はすぐに反応できなかった。
「あなたが今回、選考会を勝ち抜いてきた最後の五人のうちのひとりだと聞いています。このゼルダにはずいぶん前からいらしてくださっているようですね」
「……はい、二年、前から……」
「お年は?」
「三十、二歳です」
「仕事はなにをしてるんだ」
 プラチナシルバーの男の右横に座る男がくわえ煙草で、横柄に訊ねてくる。逞しい体躯を上質のスーツで包み、メタルフレームの眼鏡が彼の冷酷な知性を際だたせていた。
「……学校の、教師です……」
 声がか細くなったのは、演技ではない。聖職にありながら、こんないかがわしい場所に来ていることがもしも学校や生徒たち、親たちにばれたら――そう思うだけで、全身が細かに震え出す。
「そう、不安になられなくても大丈夫ですよ。ここには社会的地位の高い方もたくさんいらっしゃるから。客だけでなく、プレイヤーにもね」
 くくっと笑い、右耳に一粒ダイヤのピアスをはめた男はもう一度足を組み替え、「僕の名前は知っていますね?」と丁寧な口調で訊ねてくる。その甘い声音に誘われ、加納はがくがくと頷いた。
 知らないはずがない。この二年、六本木の片隅にあるビルの地下、老舗のSMクラブとして名高い「クラブ・ゼルダ」に通い続けたのは、目の前で微笑む銀髪の男に憧れていた一心だ。
「チカさん……」
「はい」
 にこりと笑うチカは、ゼルダきってのSMプレイヤーだ。多くの言葉で奴隷たちを引きずり回し、圧倒し、従属させる手腕は、客のひとりとして見ていても頭がおかしくなりそうなほどの蠱惑に満ちていた。誰も彼もがチカの前にひれ伏し、徹底的に虐げられた最後に、彼の靴の爪先に泣きながらくちづける場面を、どんなに羨ましい思いで見てきただろう。
 ――いつか、そのひとりになりたい。チカさんに苛められてみたい。
 客として通ううちに加納は強く願うようになったが、ステージ上にあがれるのは厳選された奴隷だけだと知ったのはいつだったか。
『専用の選考会があるんだ。身元はもちろん、肉体的に彼ら好みじゃないと絶対にむりだってさ』
 顔なじみになった客のひとりから聞かされたときは、絶望的な気分になったものだ。
 どこをどう見ても、自分に誇れるものなどひとつもない。都内私立高校の教師というだけで、顔も身体も地味で平凡。外に一歩出れば、群衆にまぎれてしまうひとりなのだと加納自身が痛いほどにわかっていた。
 ――だから、違う世界のひとたちに憧れるんだろう。俺には、彼らのような勇気がないから。
 自分なんか絶対に奴隷になれない。たとえ、夢の中でもむりだ。
 そう言い聞かせ、客のひとりとしてショウを見るだけで満足しようと努めてきたのだが、三か月前だろうか。実質上、ゼルダのトップ・プレイヤーであるチカみずから、『今回、長いことストップしていた奴隷志願者を募集します』と宣言したのだ。
 それも、チカの凄絶な言葉によるショウが終わったばかりで、興奮冷めやらぬ場でだ。いっせいに客は色めき立ち、皆が皆、固唾を呑んでチカの次の言葉を待っていた。
『ただし、五名だけ。志願者は指定の手続きを取ってください。選考会は二か月後、合格者のみ僕らが個人面談をします』
 ショウの名残か、汗でシャツが張りつく引き締まった身体のチカをぼんやり見上げたあのときの自分には、人生でただ一度きりの勇気が働いたに違いない。
 ――選ばれないことは最初からわかってる。でも、やってみなきゃわからないじゃないか。
 選考会に落ちたところで、どうというわけではない。そもそも教師という立場にある以上、SMなどという極まった趣味に没頭していることは死ぬまでひた隠しにしなければならないのだ。なにかの間違いで奴隷になってしまい、ステージにあがることになったら、大勢の目にさらされ、いたぶられる。そんなことになったら、身の破滅だ。
 だが、自分を戒めるのと同時にどうしようもない快感がこみ上げてくるのはなぜなのだろう。いけないとわかっていて、その道を突き進みたいと思ってしまうものこそ、生まれ持った性癖だ。


 そうして、いま、加納は奴隷のひとりとして選ばれ、プレイヤーだけが集まったゼルダのステージ上で身を縮こまらせていた。今夜のゼルダは休店日にあたっており、客はひとりもいない。つい先ほど、飲みものを運んできてくれたボーイもひとりしか出勤していないらしい。
 だが、どんなに喉がからからに渇いていても、いまなにか飲む余裕など加納には一欠片もなかった。
 ――どうして俺が受かったんだろう。ほかにもきっといい素材がたくさんいただろうに。
「加納さん、さっきからまったく落ち着きがありませんね?」
 そわそわしていたことを笑顔で咎められたことに、加納は顔を強張らせ、「すみません」と反射的に頭を下げた。長いことチカのステージを見てきたせいか、彼の深みのある声にはなぜか逆らえないのだ。
「いいんですよ、べつに怒ったわけじゃない。こういう場に呼ばれて、堂々としている男に僕らは用がないから。ねえ、真柴さん」
「まあな」
 極上のスーツを身につけた眼鏡の男、真柴は、チカと並ぶスター・プレイヤーだ。ある主人が飽きて放り出した奴隷をメンテナンスし、次の主人に引き渡すというバイヤーという役目を持つかたわら、力で奴隷を圧する武闘派のプレイヤーとしても知られており、言葉を巧みに操るチカとは真逆のタイプだ。
「加納、おまえは自分がどうして選ばれたかわかってるか? 奴隷として、最後の五人目だぜ」
 酷な笑い方をする真柴に、本気で、「わかり、ません……」と声が震える。
 真柴のような男は苦手だった。彼に虐げられる奴隷はつねに痣が絶えず、肉体的な苦痛が高いと聞いている。加納も何度か彼のショウを見ていたが、奴隷の受ける痛みが自分のように思えてならず、どうにもつらかった。
 ――俺は違う、……もっとやさしく苛められたいんだ。
 歪んだ望みを口にすることもできずに黙っていると、チカの左横に座る男がたばこをくわえ、マッチで火をともすために顔を傾げる。それからふうっと煙を天井に向かって吐き出し、真柴と似たような冷ややかな笑みを向けてきた。
「最後の五人目っていったら、かなりきわどいラインだぜ。客として俺たちをあがめるか、奴隷として虐げられるか、ぎりぎりのところにおまえはいるんだよ。言うなれば、補欠ってところだな」
 低い声には不可思議な掠れがあり、加納を竦ませる。彼もやはり冷たい印象のする眼鏡をかけ、シャツにネクタイという格好だ。パッと見ただけでは普通のサラリーマンのようにしか思えないだろうが、ゼルダでは違う。加藤という名の彼がここ最近、真柴と対を成す武闘派のプレイヤーとして名をあげていることは、加納も知っていた。洗練された雰囲気で圧する真柴と違い、加藤のほうがもっと野性的だ。男を受け入れるのに慣れていない奴隷のそこを徹底的に調教し、客を楽しませるのが彼の得意とするプレイだ。
「加藤さん、そこまで言わなくてもいいでしょう。可哀相だよ」
「なに言ってんだよ。こういうことは最初に言っておかないとつけあがるだろ」
 やんわりと諭すチカに加藤が平然と言い返す。
 厳しい選考会を経てきても、彼らの前では、奴隷というのはなんの権限も持たない。単なる「モノ」でしかないことを痛感し、加納はくちびるを噛み締めてうつむいた。
 ――どうして、俺はここにいるんだろう。受かったら、すぐに苛めてもらえると思ったのに。
 特殊なライトを浴びて、背中がじわりと濡れてくる。いますぐ、逃げたい。帰りたい、安全な場所へ。地下にあるゼルダの長い階段を駆け上れば、普通の暮らしと普通のひとびとが待つ世界がある。そうわかっているのに動けないのは、平凡な毎日に心底飽き飽きしているというこころもあるからだ。
 教師という堅苦しい職を選んだのは自分だとしても、誰かひとりの男にやさしく、いやらしく苛められてみたいというねじれた望みが消えることはなかった。だから、こそこそと隠れるように仲間を捜し、店を探し、ゼルダに通うようになり、ようやく専属奴隷の立場になろうとしているのに、その前に過酷な通過儀礼があるようだ。
「……最後の五人目。あなたにはね、ほかの四人が持っていないものがあるんですよ」
「……え……」
 やさしい声にうながされて顔をあげると、チカは「成澤さん?」と加藤越しに顔をそらしていた。その仕草につられて視線を戻すと、長い前髪のあいだから鋭いまなざしが見え隠れする若い男が長い足を組み替えたところだった。それからまばたきひとつ、加納と視線を合わせてきて、ふと口元をほころばせる。それだけで、ぞくりとするような淫靡な色気を放つ男は、居並ぶプレイヤーのなかでもっとも最年少だと思われた。二十代になったばかりか、そこらか。
「成澤邦彰さん。加納さんはたぶんまだ知らないでしょう。つい最近、プレイヤー登録されたばかりだから」
「まだ二十歳なんだろ? 大学に通いながらうちのプレイヤーになるなんて、チカ以来だよな」
 一回りは違うだろう真柴の言葉に、成澤と呼ばれた男は「ええ、まあ」とまったく動じない。真っ白なボタンダウンシャツは第一ボタンだけをはずし、しっかりとプレスのきいた濃紺のチェックのパンツという清潔なスタイルは、こなれたプレイヤーたちのなかで妙に浮いていた。
「彼はね、僕が見込んだ男です。この若さで誰よりもいやらしいことを平然と言うし、するし、なにより罪悪感がゼロってところが素晴らしい。加納さん、わかりますか? 人間が動物と一線を画するのは、罪悪感を持つか持たないか――そこです。その点、成澤さんはかぎりなく動物に近い。知性を持つ、動物にね」
 真柴の煙草を奪って一口吸い、チカが深く微笑む。
「そこで、僕らは協議した結果、あなたを成澤さんに預けることにしました。成澤さん自身、まだ新人で、あなたのような未知数を持つ男を扱うのは今後のためになりますから」
「……そんな、俺、……俺はチカさんがいいと思ってたのに……!」
 思わず椅子から腰を浮かせた加納をなだめるように、チカが「落ち着いて」と人差し指をくちびるの前に立てて囁く。
「あなたにはなんの権限もありません。ここでは、加納恭平さんという人格が剥ぎ取られる。あなたは単なる奴隷候補の五番。僕を選べるような立場じゃありませんよ」
 思ってもみなかった突き放した声に、胸がすうっと冷えていく。にこやかに微笑みながらも手厳しいことを言うのがチカの本性だと知ったのは、たったいまかもしれない。