SS「記念日」(『他人同士』番外編)

※3/21Jガーデンの無配ペーパーでした。







 そのメールに気づいたのは、編集部の片隅にあるコーヒーサーバーから熱々のコーヒーをマグカップに淹れて戻ってきたときだった。机の片隅に置いた携帯電話のランプが点滅しているのを見て、大手出版社の央号舎が発行する隔週エンタメ誌『エイダ』の編集者である浅田諒一は、ちいさく笑ってメールをチェックする。

『お仕事お疲れさまです。なんだか最近忙しいみたいで深夜にならないと帰ってこないみたいですが、身体、大丈夫ですか? 今日は一緒に晩ごはんを食べられたら嬉しいです。田口暁』

「まめなこったな」
 呟いて、コーヒーをひと口。ノンケで年下の若手カメラマン、田口暁と同居するようになってもうずいぶんと経つのだが、彼のきめ細やかな性格はいまもちっとも変わらない。美味そうな男だと目をつけ、絶対に食ってやると内心意気込んで同居させてやったのに、結果は涙をなくして語れない。若い男の力に押されまくり、二十八歳の諒一はあえなく二十四歳の暁に抱かれたのだった。ノンケのくせにと何度なじったことか。なにをさかってるんだ、男にはまってどうするんだとも言ったのだが、暁の情熱的で、どこかやさしさと真面目さも伝わってくるセックスには太刀打ちできない。
 そういえば、最近仕事が忙しくてろくに抱き合っていない。今日はなんとか十時頃には帰れそうだから、久しぶりに酒を酌み交わすのもいいだろう。
 メールでそう伝えれば、すぐに、『待ってます。美味しいごはんを作って待ってますね』と返信が来た。じかに見なくてもわかる。暁が嬉しそうな顔でこの文面を書いたということは。
 ――そんなことがわかるぐらい、近い距離にいるんだな。
 恋愛体質ではないはずなのに、この暖かい場所から離れたくない。
「年かなぁ、俺も」
 ため息をついてひとり苦笑いし、眼鏡を押し上げて仕事に戻ることにした。

「ただいま。……ん、いい匂いだな」
「おかえりなさい、諒一さん。今日は早かったんですね。お腹空いてます? ごはんが先? それともお風呂? それとも」
「おまえ、っていうベタな展開はよせ」
 玄関の扉を開けるなり笑顔で走ってきた暁の頭を軽く小突き、部屋中に漂ういい匂いに鼻を鳴らす。細身の諒一に比べて、暁は大柄で、カメラマンというハードワークにふさわしくしっかりとした筋肉を備えている。
「魚か。腹が減った」
「カジキの煮付けです。諒一さん好みに、少しからめに味付けしてありますよ。ほかにもいろいろ。ひとまず、手を洗ってきてくださいね」
「わかった」
 家に帰ったら美味い料理が並んでいるなんて、どこの恋愛小説か結婚情報誌だろう。世の男の大半は胃袋を掴まれたら最後だと思うのだが、自分もそのひとりになってしまったのだと思うと、情けないやら笑うやら。
 しっかり手を洗い、リビングに戻ると、低めのテーブルに皿がたくさん乗っている。
 床にじか置きのクッションに座り、暁から箸を受け取った。
「今夜は、醤油とみりんで煮付けたカジキがメインです。菜の花のからしあえと、ひじきの煮物。これはちょっと甘めかな。こっちは玉ねぎのみじん切りを散らしたトマトサラダに、きゅうりと白菜の浅漬けです。もう一品ぐらい出しましょうか?」
「いや、これで十分だよ」
「俺も一緒に食べようと思って待っていたんですよ。一緒にいただきましょう」
「いただきます」
 湯気を立てるカジキは身がふんわりしていてとても美味しい。菜の花もほろりと苦くて、この季節ならではだ。
「おまえ、ホントにまめだよな。仕事して帰ってきてこれだけのものが作れるなんてさ」
「なんか、楽しくなっちゃうんですよね。スーパーで今日はなににしようかなって考えながらいろいろ見て、諒一さんはなにが美味しいって言うんだろうとか想像すると、いろいろ試したくて」
「どれも美味しい。カジキってこんなに美味いのか」
「ふっくらしてますよね。俺も好きな味なんです」
 暁の男っぽい顔を、諒一はとても気に入っている。まっすぐな芯がとおっていて、なにごとにも全力で、純粋にぶつかる。だからこそ、この自分も最終的には折れたのだ。
 ひと言で言えば、惚れている。
「……おまえ、感謝しろよ。俺がおまえを見捨てなかったから、いまがあるんだからな」
 こころに浮かんだ甘い考えが恥ずかしくてそんなことを言うと、暁は気を悪くしたふうでもなく、「はい」と頷いて笑う。
「もちろん、こころから感謝しています。諒一さんは冷たそうに見えて、ホントは誰よりもやさしいんですよね。しかも感じやすいし」
「おい」
「そんな諒一さんに、今夜はプレゼントがあります。……じゃーん!」
「……なんだ?」
 早くもほとんど食べ終えた暁がうきうきした様子で、そばに置いてあった紙袋を押しつけてきた。
「見てください」
「なんだよこれ。……パジャマ?」
「そうです。俺とおそろいのパジャマ」
「なんで。おまえも俺も誕生日でもないだろ。ていうかペアのパジャマなんか恥ずかしくて着られるか」
「少しだけ着てくださいよ。あとは責任持って脱がしますから」
 軽口を叩く暁の頭を今度こそゴツンと小突いた。暁は可笑しそうに肩を揺らし、「記念日、なんですよ」と言う。
「……記念日?」
「そう。今日は俺がここに来た日。諒一さんと同居を始めた日です。覚えてません?」
「まったく」
 平然と言い切ると、暁は「ええー」と眉を下げる。その素直さは自分にはないものだから、余計にいじめたくなる。
「おまえはどこの女子だ。同居記念日なんてよく覚えてたな」
「だって、諒一さんが俺を受け入れてくれた大切な日ですよ。恋人同士への第一歩を歩んだ日ですよ。忘れるはずがありません」
「……あのな、恋人同士って」
「一緒に暮らして、話をして、美味しいごはんを食べて、気持ちいいセックスをして。俺たち、恋人同士でしょう?」
 にこにこしている男を横目で睨み、カジキを口に放り込む。絶妙な味付けは好みど真ん中で、何度でも食べたいぐらいだ。
「メシは美味い。話もまあまあ合うと思う。一緒にいて邪魔だと思うことはない。ただな、セックスは待て。俺が主導権を握るはずだったんだからな」
「またまた、俺のテクニックにめろめろのくせに」
「どこの親爺だおまえは、バカか」
 くだらない言葉に、思わず吹き出してしまった。しかめ面を続けたいのだけれど、暁相手ではそうもいかない。トマトを食べ、ひじきを美味しくいただく。どんなものも栄養になっていくように、この瞬間、いまというときを積み重ねて、少しずつ自分たちは未来へと近づいていくのだろう。以前だったら、未来に希望なんて抱かなかった。曖昧なものでしかなかった。
 ――でも、いまは違う。
 暁との日々は、新鮮で、温かい。つねに帰ってこられる場所を用意してくれる男を恋人としてそばに置くことを決めたのなら、自分も腹をくくりたい。
「パジャマは、今夜、お互いに脱がせ合う。わかったな」
「……はい!」
 蕩けるような笑みで、暁がこくりと頷く。
「じゃ、おかわり」
「はいはい」
「返事は一回」
 嬉しくて嬉しくて仕方ないといった暁に苦笑し、諒一は綺麗に空になった茶碗を差し出した。